拝み屋怪談 花嫁の家2

その1 その2(こ↑こ↓)

高つ神の災い 高つ鳥の災い 拝み屋の道理 母様 首仆し罪 己が母犯せる罪

母様の家、あるいは生き人形の家 介在 因果 禍夢 秘密 人形 告白 幽霊 連結 花嫁 茶毘 再訪 輪廻 邂逅

高つ神の災い 【平成十七年八月二十日】


    「どう、こんな話、普通は信じないよね? でもあたし、確かに百合子から聞いたんだよ」
    語り終えたあと、千草は珍しくしおらしい眼差しで私の顔色をそっとうかがった。
    「確かに信じられないような話ですが、でも今はそんなことよりも気になることがあります。百合子の話に登場するのは、金色の顔をした獅子舞みたいな獣ですよね? 実家の屋根裏に隠されていた母様とは見た目が全く別物です。このふたつはどうつながっていくんです?」
    千草の問いかけどおり、およそ信じ難い話にもかかわらず、私は話に関する不信感よりもむしろ、疑問点のほうに心が動いていた。
    「多分見る人によってあれは、姿形が変わるものなんじゃないかなって思うの」
    千草は座卓の上で軽く両手を組みながら、わずかに目元をしかめつつ答えた。
    「覚えてる? 屋根裏で母様を発見したのは、あたしと真也、それから弟の三人だったよね。あの時実は、母様の姿が三人とも全然違うものに見えてたんだよ」
    「真也と弟さんには何に見えていたんですか?」
    千草の話に、もはや私は完全に呑みこまれていた。 疑念も抱かず、即座に質問を投げ返す。
    「真也はなんか、光る宝石みたいに見えてたみたい。弟はよく分かんない。 じっと見てるとちんちんが固くなるとかって言ってたから、なんかいやらしい ものに見えてたんだろうね」
    「なるほど。そうすると金色の顔をした獣というのは、あくまでも百合子の主観だと?」
    「憶測だけどね。でもそう考えると辻褄が合わない?」
    本来ならば辻褄がどうのというような、まともな話でないことは分かっている。けれども千草の語るこの母様の性質について、どうにか整合性を求めようと私は躍起になっていた。
    結果、こんな推測が湧きだし、はっとなる。
    昭代が長年悩まされていたという、椚木家の庭で吠え荒んでいたあの黒い獣たち。
    昭代がそれらを狼のような黒い獣だと主張していたのに対し、幼い頃の千草 が見たそれは、裸の小さな子供たちだったはずである。それらを仮に、百合子の義父に討たれた奇妙な獣の子供たちだと考えるのなら、これは完全に辻褄が 合ってしまう話なのだ。
    すなわち、昭代も千草も同じものを目撃しているが、姿形はまるで違うもの に見えていた。そうした解釈をすることができる。
    「それでね。 あたしさ、実は母親の葬儀の時、実家から母様を持ちだしたの」
    私が無言で思いを巡らすさなか、さらりと放たれた千草のひと言に、思わず 「はん?」と奇妙な声が漏れる。
    が、千草は私の動揺など何処吹く風といった調子で、さらに言葉を紡ぐ。
    「母親やお父さん、それから叔父をおかしくしたのが母様だったら、独りで実 家に残されたお母さんが危ないって思ったの。だから持ちだした」
    それにさ。と千草はさらにつけ加えた。
    「早めに動いて正解だったよ。もう少しで、危なく真也に持っていかれるとこだった。」
    「真也、ですか? あいつがどうして母様を欲しがるんです?」
    「だからさ、真也の目に見えてるのは、母様じゃないんだよ」
    千草の言葉に、以前、真也が勿体ぶって囀った大仰な言葉を思いだす。
    至純の光。千草が先ほど語った「光る宝石みたいなもの」と、そのイメージ は合致する。
    「じゃあ真也が探しているっていうのも、その母様と同じものなんですか?」
    「ビンゴ。あいつ、母親からは出禁食らってたけどさ、本人が死んだら別に関係ないからね。お母さんはくわしい経緯なんか知らないから、母親が死んですぐ、千恵子に連絡したみたい。 そしたら来たよ、お通夜の晩にニヤニヤしながら」
    しかしその時すでに母様は、千草の手中に渡っていた。
    通夜の前日。千草は昭代から連絡を受け、百合子の納棺に立ち会うため実家に舞い戻った。しばらくぶりに帰った椚木の家は閑散として、まるで廃墟のようだったという。
    「実家に帰るなり母親の部屋に忍びこんだんだけど、案の定、鍵は元の場所に なくてさ」
    幼い千草たちを折檻したあの後、別の場所に隠し直しただろうことは容易に 察せられた。
    「さんざん探したんだけど、全然見つからなくて」
    天井裏を塞いでいるのは大きな錠前だった。鍵なくして開けられるような代物ではない。しかしどれほど探しても鍵は見つからず、 千草は焦りながら二階へ続く階段を駆け上った。
    「その時さ、階段を上りながら『あっ』って思ったの」
    千草が幼稚園の頃から小学三年生まで、 茶の間のガラス障子越しに見続けたというあの脚。
    「あたしさ。その日、ピンク色のタイツを穿いてたんだよ」
    古びた階段を上る自分の脚の色は、千草に幼い頃の記憶を昨日のことのように蘇らせた。 続いてあの当時、脚が階段を上りきった先でぴたりと止まって いたことを思いだす。
    「階段を上った二階の正面には柱時計があるんだ。 大人の背丈くらいある、 でっかいやつ」
    生前、柱時計のゼンマイを巻くのは百合子の仕事だった。ゼンマイを管理していたのも百合子だったため、千草たちが興味を示して手をつけることもな かったのだという。
    「時計のさ、振り子が揺れる下側のガラス扉を開けてみたの。中を覗いてみたら、あった」
    左右に規則正しく揺れ動く巨大な振り子。鍵はその裏側にあった。 袋状に折 り畳んだ紙を振り子の裏にガムテープで貼りつけ、紙の中にそっと忍びこませ てあったのだという。
    見つけた鍵を使って屋根裏に入りこむと、幸いにも母様はすぐに見つかった。
    観音開きの箪笥の中。十数年ぶりに見る黒い漆塗りのあの箱の中にそれは、老いも死にも腐りもせず、当時と変わらぬ面貌のまま収まっていたという。
    「それであたし、母様の入った箱を持って一旦実家から引きあげたの。 枕経なんか聞かない。あんな女のために手なんか合わせる気にもなれないし」
    無事に母様を回収した千草はその後、当初は葬儀の最後まで参列する予定だったという。
    「母親の葬儀なんか別にどうでもいいんだけど、一瞬でもお母さんと一緒にいられるんなら、まあいいかなって思った。でも結局、お通夜を最後にあたし、実家に行くのやめたんだよ」
    原因は真也である。
    「お通夜の席で顔を合わせるなり、腕引っつかまれて天井裏の前まで連れてかれてさ。 物凄い剣幕で怒鳴られたのだという。
    「『お前、あれどこにやった? お前が持ってんだろ!』って、すっかりブチ切れてんの」
    天井裏へ続く扉は蹴破られたのか、 戸板が半分ひしゃげて半開きになっていた。
    千草は真也の腕を強引に振り払うと一直線に実家を飛びだし、そのまま車に飛び乗った。
    「で、すぐにお母さんに電話したの。真也に訊かれても、あたしの住所は教えないでって」
    居所を知ったら絶対に押しかけてくる。危惧した千草は昭代に「絶対に」と念を押した。
    「真也、昔と比べものにならないくらいおかしくなってたよ。話してなかった んだけどさ、母親にぼこぼこにされて出禁になったあともね、しばらく通い続けたんだよ、あいつ」
    当然ながら、そのたび百合子に棒で殴られ、追い払われた。しかしそれでもなおも執拗に、真也はしばらくの間、木の家に通い詰めたのだという。
    「まるっきりけだものだった。どんなに殴られても次の日にはまた来るんだもん」
    真也の自宅から椚木の実家までは、自転車で優に一時間以上はかかる距離にあるという。しかも椚木の家は山中の奥深い場所にある。ゆえに終盤は急こう 配の上り坂が延々と続く。
    さらに季節は当時、真冬である。加えて山中は連日、深い雪に覆われてもいた。
    そんな道程を真也は、百合子に出入り禁止を食らってもなお〝至純の光"だけを目当てに、ほぼ毎日、通い続けていたのだという。
    千草の補足を聞いて、水を浴びせられたようにぞっとした。
    千草の話を頼りに計算すれば、真也は当時、 小学二年生かそこらである。
    一体何がそれほどまでに幼い子供の心を虜にさせてしまうものなのか。それは子供特有の純粋な好奇心とはまるで異質な、憑き物じみた奇行だと感じた。
    「結局、二週間くらい通ったんじゃないかな?。その頃にはさすがの母親も手加減してたよ。だってさ、あのまんま毎日本気で殴り続けたら多分あいつ、死んでたと思うもん」
    身体中、擦りきれた雑巾のように変わり果て、気力も体力も限界に達した頃、ようやく真也は椚木家への侵入を諦めたのだという。
    「なんとなくでも分かったかな? 多分、母様はね、関わった人を狂わせてし まうんだよ。あたしもほんとはもう狂ってるのかもしれない。狂ってるって、自分では分かんないしね」
    それにね―――と、千草はさらに言葉を継いだ。
    「今だから正直に話すんだけど、あたしも実は、母様を手放したくないの。最初の予定では屋根裏から持ちだした帰り道に、川にでも放りこもうって考えて たんだけど、できなかった。............もったいなくて」
    座卓の眼前に広がる虚空を見つめがら告白した千草の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
    「それにさ、家に持って帰っちゃえば美月も巻きこんでしまうことになるで しょう? でも、それでも途中で捨てらんなかった。あたし、自分の中であれこれ適当な言いわけを作っては、結局家に母様を連れて帰ってきちゃった」
    「でも、それではやっぱりまずいと思ったから、私に謎々を出したりしたんでしょう?」
    「それも違うの。当たってるけど、微妙に違う。ほんとはさ、すぐにでも郷内さんに母様を見せて、処分してもらいたかった。だからあの日、家に来てもら ったのね。でも、いざ郷内さんが家に来ると、あたし、どうしても素直に話が できなかった」
    「それは、私を心配してのことでしょう?」
    「だから違う。本当はね名残惜しかったのよ。バカみたいに聞こえるかもしれないけど、郷内さんに母様をとられちゃうんじゃないかって、そんなこと も考えちゃった」
    千草は冗談めかしてこんなことを言っているのではない。目が恐ろしいほどに真剣だった。
    「で、あたしの本当の依頼を正式にお話しします―」
    きゅっと小さく唾を呑みこんだあと、千草は再び凜と透きとおる声で言葉を紡いだ。
    「母様を然るべき手段で処分してもらいたいの。あたし、もうそろそろ自分自身が怖い」
    つかのま、仕事場に沈黙が舞い降りた。
    気まずい沈黙を破り、早く答えを返さなければと思うのだが声が出なかった。
    どう答えてよいのか、私の頭が決めあぐねていたのである。
    「無理そうなら遠慮なくそう言って。 あたしは強制できる立場じゃないから。 だから今まで母様を見せなかったの。郷内さんの覚悟も聞かないで巻きこむのは、フェアじゃないから」
    まるで清水の舞台に立つような切羽詰まった形相で、千草は私をまっすぐに 見つめていた。その面差しは、六月に初めてこの仕事場を訪れた時とはもう、まるで別人のようだった。
    彼女は決して狂ってなどいない。おそらく今回の件に関わる関係者の中で誰 よりも冷静で、また誰よりも多くの情報を知り得ている。
    ただ。その事実こそがやはり、私にとって何よりも恐ろしかった。
    千草は狂っていない、虚言を吐いているのではないという事実が何を示唆するものなのか。 導きだされる答えはひとつである。
    ―母様は千草の空想の中にではなく、この現世に紛うかたなく存在している。
    まだ見ぬ母様の姿を想像しただけで眩暈を起こしそうなほど、私は戦慄していた。
    だが長い沈黙の末、私の口から勝手にこぼれ落ちたのは、こんな愚かな回答だったのだ。
    「やるだけやってみます」
    だから私もこの時、あるいはもう〝祝えざる何か"の力に狂わされていたの かもしれない。
    「巻きこんじゃってごめん。でも、ありがとう」
    深々と頭をさげたあと、千草は私に向かってふわりと笑んだ。

    それからおよそ一時間後。私は千草の運転する車に乗せられ、木の実家へ向かっていた。時刻は午後八時過ぎ。八月とはいえ夜の帳もすっかり降りて、 外はすでに真っ暗だった。
    母様を見る前に、まずは椚木の実家を見てほしい。
    千草ははっきり言葉にしなかったが、おそらく私に対する〝最終テスト"な のだと判じた。だから素直に従うことにしたのである。
    「なんとかっていうその先生・・・・・・山道の途中で引き返しちゃったんでしょ? 郷内さんもさ、もしもおんなじようなものが見えたりして、あっやばい! って思ったら遠慮なく言ってね。そしたらまた作戦を練り直そうよ」
    まっすぐな田んぼ道を飛ばしながら、千草が前方の暗闇に向かって言った。
    千草が言っているのは水谷さんのことである。 先日、彼が山道で目撃したと いう巨大な狼。私も仮にそんなものが視えたとしたら、それでも千草の依頼を 継続するだろうか。
    そんなことを漠然と考えながら、私は助手席のシートにほとんど無言のまま座り続けた。
    やがて車は田んぼ道を抜け、暗闇の中に現れた急こう配をゆるゆると上り始めた。
    「五分ぐらい上ったらあたしの実家。途中でなんか視えたら遠慮なく言ってね」
    ハンドルを握りながら発した千草の言葉に生返事をしながら、真っ暗闇の周囲に目を配る。
    九十九折の山道を右へ左へ揺られながら、時間だけがどんどん過ぎていった。
    重々警戒していたものの、目の前に広がるのは闇ばかりで不穏な気配は何も感じられない。そうこうするうちに車が停まり、千草に「着いたよ」と言われた。
    幅の広い長屋門が、ヘッドライトの灯火を浴びて眼前にくっきりと浮かびあ がっていた。端から端まで、目算でざっと五十メートルはあるだろうか。門扉 はすでに固く閉ざされ、敷地の内部は確認できなかったが、門の長径を見る限 り、かなり大きな屋敷だということはうかがい知れた。
    「どう? なんか視えたりした? 言っとくけど絶対遠慮しないでね。 やばい感じだったらもう一度作戦会議。そういう感じでいこう」
    「いや......誓って言いますけど、特に何も感じはしなかったし、視えもしませ んでしたよ。今もここにいて気持ち悪いとか何かが視えるとか、そういうことも特にないです」
    嘘を言っても仕方がないので事実をありのまま、率直に返した。
    「そ。ならいっか。あたしも別になんともなかったし。ごめんね、無駄足踏ませたみたいで。 じゃあそろそろ本題―」
    千草が車を出そうとした、その時だった。

    おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん......

    森閑とした暗闇のどこかから、甲高い獣の声が突然聞こえ始めた。遠吠えだった。

    おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん・・・・・・

    狼だ。 声が鼓膜を突き刺した瞬間、直感的にそう思った。けれども姿はどこにも見えない。
    「野良犬かなんかですかね? それとも実家で犬とか飼ってます?」
    ただの強がりだった。本当は、そんなものではないと分かっていた。
    千草は私に後頭部を向け、運転席の向こうの暗闇の彼方を、無言でじっと見つめていた。
    私も身を乗り出し、 千草が向ける視線の先を凝視する。

    おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん.........

    長屋門のはるか先の暗闇に、黒塗りのセダンが一台停まっていた。
    声はどうやら、車の中から聞こえてくる。
    「行こ」
    思いだしたようにハンドルへ向き直るなり、千草はすかさずギアをリバースに切り替えた。次の瞬間、車がほとんど秒速の勢いで山道の下り坂へと向き直る。
    「ちょっと飛ばすけど、我慢してね」
    言い終えるなり、深闇に包まれた山道を千草の車が猛然と下り始めた。
    「ちょっと、危ないです!どうしたんですか!」
    車は九十九折の下り坂を、弾丸のような勢いで駆けおりていく。
    「真也!」
    「は?」
    「だから真也! 張ってたのよ! あのガキ、あたしが実家に戻ると思って、ずっとあそこで張ってたのよ!通夜の時に一回見てんのよ、あの車! 間違いない、ああむかつく!」
    声の優れるような絶叫を絞りだしたあと、千草はアクセルペダルをさらに強 く踏みこんだ。
    急なカーブをほとんど路肩すれすれで曲がりきるたび、内臓が腹の片側に偏るかのようなひどい重力を感じた。 「ぐっ」と苦悶の唸り声があがる。
    「来てる?どう? 見て!」
    千草に怒鳴られるまま、サイドミラーですかさず後方を見やる。墨汁で塗り 固めたような夜の山道にい明かりがふたつ、並列して浮かんでいるのが小さく見えた。
    「ついてきてる!って言うか飛ばすな! 死ぬぞ!」
    ほとんど無我の境地で千草へ叫び返す。 しかし、千草が私の言葉に反応したのは、末尾の「死ぬぞ!」 ではなく、頭の「ついてきてる!」のほうだった。
    車がさらに加速する。 幾重にも織りなす 「つ」の字のようなきつい曲り坂の連続にあって、千草はそれらをほぼ直角に曲がり、なおかつ全速力で下りなが ら、車を山から滑りおろした。
    「どうよ! まだ来てる?」
    千草が叫ぶ。 シートから身を乗りだし、リアウィンドウへ向き直る。
    いた。まっすぐな田んぼ道の後方二十メートル辺りに、黒いセダンの両目が光っていた。
    「いる!どうすんですか、 これ!」
    「このままなんとかして撒く! 絶対うちの場所を知ら―――」

    ああああああああああああああああああああああああああああああああ!

    突然、闇間を切り裂くような凄まじい大絶叫が背後から轟き、私の耳と脳を 震わせた。

    ッッああああああああああああああああああああああああああああああああ!

    「耳塞いで!頭、おかしくなる!」
    千草の怒声と脳天をびりびりと震わす衝撃の相乗効果に、ほとんど条件反射 で両耳を塞ぐ。

    ツ あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!

    そのまま後方を振り返り、リアウィンドウ越しに追手の様子を凝視する。
    ハイビームの眩い閃光に阻まれ仔細まではうかがえなかったが、それでも運転席の窓から斜めに突き出た頭が、ぼんやりと確認できた。
    「見なくていい! 多分見ているだけでもおかしくなる!」
    千草に襟首をぐいと掴まれ、前方の田んぼ道に視線を引き戻される。
    一瞬視界に浮きあがっただけだったが、それでも分かった。やはり間違いなく真也だった。 運転席の窓から首を突きだし、大口を開けているのが見えた。
    あれが以前、私に宣っていた "声"なのだと瞬時に察する。てっきりはったり かと思っていたのだが、そうではなかった。
    あれはれっきとした凶器である。
    「このまま一回、街のほうに行くから! そこで完全に撒く!」
    千草が言う街とは、私の自宅からも千草の自宅からも完全に逆方向に位置する市街である。ただ、椚木の実家があるこの町からは、車でおよそ五分の隣町 だった。
    凄まじい勢いで千草が飛ばすため、たかだか二分たらずで車は市街地へ入った。
    時刻は午後八時過ぎ。人気のない田んぼ道と違い、両脇に雑多な店が軒を連 ねる市街地の大通りには、まだ大勢の車が行き交っている。
    サイドミラー越しにうしろを確認すると、 真也の車は依然として追尾を続けていた。
    声はもう聞こえなくなっていたが、代わりに間隔が狭まりつつある。 真也の車は、わたしたちの車から十メートルほど後方を、見えない糸で結ばれ たようにぴたりとついてきていた。
    アクセルをめいっぱい踏みこみ、千草は先行する車を次々と追い抜いていく。目の前を次々と掠めていくテールライトの群像が、私の目には死地に飛び交う人魂に見えた。 ほどなくして前方に四辻の大きな交差点が現れた。信号を見ると、灯火がちょうど青から黄色に切り替わったところだった。
    「真似しちゃダメですよッ!」
    千草が叫ぶと同時に、車が交差点に向かって全速力で突進していく。交差点前の停止線を踏み越えた瞬間、信号が赤へと切り替わるのが確認できた。
    交差点に進入するなり、路面を擦りつけるタイヤの音が鋭い絶叫を響かせ、耳をつんざく。同時に私の頭が千草の左肩にくっついた。車がぐん、と右へ大 きく傾いたのだ。
    ダッシュボードに両腕を突っ張りながら、首をあげる。
    車はすでに交差点を滑り抜け、対向車線側を猛然と走り始めていた。
    「これで多分撒ける。あとは念のため、しばらくめちゃくちゃに走り回るから」
    ほっとため息を漏らす千草の横顔に視線を向けたあと、助手席から振り返り、後方を見る。 真也の車は赤信号になった交差点の停止線前で立ち往生していた。
    それをしっかり確認したのち、ようやく私も安堵のため息を漏らす。

    その後、市街地を抜けた車は海岸線や住宅街の裏路地などを経て、一時間ほどかけて私の自宅へ到着した。
    「今夜はごめん。完全にあたしの誤算だった。耳、だいじょうぶ?」
    頭がひどくぐらぐらしていたが、それでも私は「大丈夫」と答えを返した。
    「だったらよかった。 でも今夜はもう無理だね。明日。空いてるなら明日の夜にしない?」
    「夜は大概空いています。 じゃあ、明日の七時にそちらへ伺うってことでどうですか?」
    提案すると千草は即座にうなずき、「美月の迎えがあるから」と大急ぎで車を発進させた。
    去り際、車中から覗く千草の顔は、なんだかさらにやつれて見えたような気がした。
    大丈夫だろうかと思いながらも、意想外の修羅場に見舞われ、私もかなりくたびれていた。そのまま寝室へ戻ると風呂にも入らず、布団に潜りこむなり、 すぐさま深い眠りに落ちた。
    普段、恐ろしく寝つきの悪い私としては、それはとても珍しいことだった。

高つ鳥の災い 【平成十七年八月二十二日 午後九時】


    あくる日から、私は熱をだして寝こんだ。
    朝、目が覚めると全身がひどい悪寒に包まれ、頭がぐらぐらと揺れて視界が回った。
    熱を測ると三十九度もある。昨晩、千草の家を訪ねる約束はしていたが、と てもまともに歩けるような状態ではなかった。
    約束を後日に引き延ばしてもらうため、布団の中から千草に電話をかける。ところが何度かけても、千草は電話にでなかった。 私から着信が入っていた のが分かればそのうち折り返してくるだろうと思い、そのまま私は薬を飲んで 眠りについた。
    だが結局この日、千草から折り返し連絡がくることはついになかった。昨日 の今日なので多少心配にもなったのだが、私の思考はそこで止まり、それ以上 の感情は芽生えなかった。
    翌日も千草からの連絡はなかった。熱は嘘のようにさがったが、頭のほうは相変わらず、脳が軟化でも起こしたかのように思考がうまくまとまらなかっ た。
    夜の七時過ぎ、布団に潜りこんでいたところへ華原さんが訪ねてきた。出張仕事の帰りのその足で、依頼主の漁師から土産にもらった魚をお裾分けに来たのだという。
    九時過ぎ、半分呆けた頭のまま、仕事場で華原さんと談笑していたところへ出ると、電話の相手は椚木昭代だった。
    「死んだ娘の悪霊を祓ってほしいんです」
    挨拶を終えた直後、電話口の昭代は厳しい声で、私にそう言った。
    ほんの一瞬、昭代が悪霊〟と指した娘が誰のことなのか分からず、私は記憶を逍遥した。 やがて該当する人物の顔と名前が浮かんだとたん、全身からへなへなと力が抜けていく。
    「死んだ千草が、わたしを祟っているんです! 救けてください!」
    振り絞るような声で発せられた昭代の言葉に、揺るぎない確信が生じる。
    「......一体、何があったんですか?」
    ようやくの思いで発せられた私の声は、ひどく震えて上擦っていた。
    「千草が、わたしの枕元に立つんです......」
    昭代も同じくひどくがたついた震え声で、これまでに至る経緯を切々と語り始めた。
    昨日、八月二十一日の朝。
    千草は自宅の居間で仰向けになって死んでいるのを、付近の住人の手によって発見された。早朝、自宅の門前ですすり泣いている美月の姿を不審に思った 住人が、念のために自宅内を確認したことによる、比較的早期の発見だったという。
    死因はくも膜下出血。 死亡推定時刻は同日の深夜一時から二時の間。事件性 はないものと断定され、遺体は即日、昭代の元へと返された。
    葬儀の一切は千草の自宅ではなく、椚木の家で執りおこなわれることになった。
    千草の遺体が椚木家の床の間に安置された、昨日の夜だったという。
    「............娘がわたしの顔を見つめて、にやにや笑うんです」
    深夜、昭代が寝室の布団で寝入っていると、ふいに肩口をぽんぽんと叩かれた。
    この晩、 椚木家には警察から身柄を引き受けた美月と、葬儀の手伝いのため に菊枝さんが泊まりにきているだけだった。家には他に誰もいない。
    隣に床を並べていた美月と思い、寝ぼけ眼を開いたとたん、ぎくりとなって凍りついた。
    仰向けに寝ていた昭代の眼前に、逆さまになった千草の顔が覗きこんでいた。
    千草はにやにやと厭らしい笑みを満面に浮かべ、無言のまま昭代の顔を眺めていたという。驚きと恐怖に心を弾かれ、すかさず飛び起きようと踏ん張った が、身体は石のように固まり、すでにぴくりとも動かすことができなかった。
    油断していたのだという。安心しきっていたのである。
    迂闊に目を開けてしまったことを昭代は心底後悔する羽目になった。
    つい二日前のこと、水谷さんが百合子の亡魂を祓った日の晩から、昭代の寝床に百合子が現れることはなくなったのだという。 それですっかり気が緩んでいたのだと、昭代は語る。
    親が潰れたかと思えば、今度は娘か――。
    無言のまま、にやにやと笑い続ける千草の顔を逆さに仰ぎ見ているうちに、 昭代の視界は霧がかかったようにぼやけ、やがて意識を失った。
    「死んだ義母にこれまで散々苦しめられてきて、今度はそいつの娘に苦しめられるんです! 千草はきっと今夜も化けて出てきます......。このままでは怖くて眠ることができません......。 今すぐにでもお祓いをしに来てください!」
    気がつけば電話口の向こうで涙声をあげる昭代の願いに、私はほとんどうわの空だった。
    まだうまく、現実を現実として受け止められなかったのである。
    千草がいなくなったという実感がまるで湧いてこなかった。同時に昭代から千草の訃報を知らされるまで、私は高鳥千草という存在そのものを完全に忘却してさえもいた。
    どうして忘れていたのだろうと、今さらながらに思う。
    蒼ざめながら、昭代の言葉を聞き続ける。
    「それに千草、実は従弟のところにも化けて出たようなんです。 わたしの義理の妹の息子で、千草と大して歳の変わらない甥がいるんですけれど、その子の ところにも出てきたらしくて。 今夜、お通夜の席でそれを知りまして、もう恥 ずかしいやら情けないやら・・・・・・」
    従弟。義理の妹の息子。 千草と同年代。
    頭の中から引っ張りだした椚木家の家系図を照会すると、該当する人物はすぐに分かった。
    ――芹沢真也である。
    「その子、小さい頃から霊感が強いらしいんです。 わたしの身に起きているこ とを知ったら、今後の対応についていろいろと相談にも乗ってくれて」
    ようやく思いだした。
    千草が亡くなった八月二十一日の深夜。それはちょうど、椚木家の門前で待ち伏せていた真也の執拗な追跡をかわし、ほうほうの体で帰宅した、あの数時 間後のことである。 「相談とは具体的にどんな?」
    記憶が戻ると、頭もしだいに冴え始めてきた。同時に厭な予感もありありと浮かび始める。
    「千草は悪霊になって椚木の一族を祟り始めたんだと言われました。このまま放っておくと取り返しのつかない事態になるから、早いうちに手を打つ必要があると」
    果たして私の予感したとおりの返答だった。あのろくでもない大嘘つきが。
    「その従弟、千草さんの自宅の所在地を尋ねてきませんでしたか?」
    昭代に探りを入れてみる。
    「......はい、 訊かれました。千草の悪霊が身をひそめているのはおそらく自宅 のはずだから、直接現地に行って除霊をしないと、根本的な解決はできないと 言われました」
    ここまでは、ほぼ予想どおりの回答である。だが、本当に肝心なのはこの次 の答えなのだ。
    「―――それで、その従弟に自宅の場所を教えたんですか?」
    「いえ、まだです。 その子もお祓いはできるそうですが、 やはりこういうこと は本職の方にお願いするのが筋かと思いまして。その子の申し出は今、保留にしているんです」
    とりあえず安堵の息を漏らす。 しかし、まだ問題が解決したわけではなかった。
    「......そうですか。 では、ご依頼の承諾にあたってひとつだけ約束してください」
    今現在、自分自身にできうる最大限の防護策を講じる。
    「はい、なんでしょう?」
    「私がそちらへ向かうまで、娘さんのお宅には絶対に行かないようにしてください。従弟のその子が私に先んじてお祓いをするのも、下見をするのも不可とします。素人が軽はずみに手をだしていい領域ではありません。 今回の仕事に関しては、最初から最後まで本職の私に全て任せていただく。 それが椚木さんのご依頼を引き受ける条件です」
    よろしいですか? と念を押すと、昭代は即座にこれを承諾した。
    「分かりました、約束いたします。 どうかよろしくお願いいたします」
    「ありがとうございます。 それではまた、改めてご連絡を差しあげます」
    昭代がなぜ私に連絡をよこしたのかは、すぐに了解することができた。
    同じ依頼を水谷さんに打診して、断られたのだろう。 あの人はもう、椚木の家には絶対に関わらないと言っていたのだ。当然である。
    あれから現状までの流れを鑑みても、それは実に賢明な判断だと思う。
    私自身も好き好んで昭代の依頼を引き受けたわけではない。 千草も死んでし
    まったのだし、本来ならばもう、椚木の家の問題からは一切合財手を引いてし まいたかった。
    ただ、その千草の死という事実自体が、私のやる気を奮い立たせる要因にもなっていた。
    千草の〝本当の死因〟を、察してしまったからである。
    椚木家の門前をふたりで訪れた一昨日の晩――。
    あの時、ハンドルを握っていた千草は、真也の絶叫を全てもろに浴びていた。別れ際には芯から疲弊しきったような異様な表情を、満面にありありと浮かべていた。
    終始耳を塞いでいた私でさえも、昨日と今日はこの体たらくである。ならば 千草があの晩、その身に受けた損傷とは、果たしていかばかりのものだったの か――。
    確かに常識的に考えればこれは、実に馬鹿げた推察である。鼓膜を破かれた わけでもなし、生身の人間に叫びつけられたくらいで、人間ひとりが死に至る はずなどない。
    これが通常ならば、私もきっとそのように判じたはずだし、そもそもこんな 浮世離れした発想自体、頭に浮かぶことさえなかったはずなのだ。ただ、この 今だけは違った。
    この二日間、身をもって実感してきた頭の痛み具合が、私の理性を完全にし りぞけていた。だからこれは理性ではなく、本能による直感である。
    あのガキが、千草を殺した。
    至純の光とやら欲しさに、たったそれだけのくだらない理由で、人間ひとり殺しやがった。
    そう思うともう、我慢がならなかった。
    性根の歪んだあのクソガキを出し抜いて、ひと泡吹かせてやりたかった。真也に先んじて千草の家に乗りこみ、〝母様〟を処分してやるのだ。思う存分、臍を噛ませてやる。
    それと等しく、昭代の愚鈍さにもはらわたが煮えくり返っていた。
    千草が昭代に祟るわけなど、あるはずがないのだ―――。
    あんなにお母さん想いで、誰よりもお母さんを心配していて、椚木家に渦巻 く災厄さえも全て一身に引き受けようとした、あの優しい千草が・・・・・・お前に祟 るわけなどないだろうに。
    昭代の目も覚まさせてやりたかった。もう、何もかもたくさんだった。
    今夜で全部、終わりにしてやるー。
    「なんだ、仕事か? だったら俺はお暇するぞ」
    声をかけられるまで、目の前にいた華原さんの存在をすっかり忘れていたことを思い出した。
    同時になんという巡り合わせかとも思った。
    彼ならばきっと、いい知恵を貸してくれる―。
    思い立つなり私は、座卓の対面に座る華原さんの前に椚木家の家系図を広げた。

拝み屋の道理 【平成十七年八月二十二日 午後九時三十分】


    「水谷の爺もあっさり手ぇ引いたんだろ? やめとけ、お前にゃ荷が重過ぎる」
    家系図を元にこれまでの経緯を説明し終えてまもなく、華原さんは呆れた顔で私の意向を一蹴した。
    「どうしてですか。人が死んでるんですよ? このまま引きさがりたくありません」
    「因果関係は? その絶叫小僧がお姉ちゃんを殺した証拠は? あ? 言ってみろ」
    わざとらしく胡乱な顔をこしらえ、華原さんが私の顔を覗きこむ。「直感ですよ」と私が答えると、華原さんは「あー、あー」と大きなうめき声を漏らした。
    「前にも言ったろうが。本質を見誤んなって。拝み屋は仕事人じゃねえ。原因がなんであれ、依頼主がもう死んじまったんだ。 その時点でもう仕事は終わりよ。頭冷やせ、バカ」
    ぞんざいに言い放つなり、華原さんは卓上に置かれた麦茶をぐいぐいと岬った。
    確かに華原さんの言うことは、筋がとおっていると思う。
    元々の依頼人である千草はすでにこの世にいない。 本来なら私の仕事はもう終わりである。悪霊と化した千草を祓ってほしいなどという昭代の依頼も、断 れば済むだけの話なのだ。
    確かに、頭に血がのぼっているのは自分でも承知していた。ただ、こんな助言が欲しくて私は華原さんに相談を持ちかけたのではない。加えてこちらの内情も察せずに、状況だけを俯瞰してあっさり「やめとけ」と言い放つ華原さん に、少々気分も害していた。
    「そうですか。 そういうふうに受けとられるんなら、仕方がありません。偉大先達として、何かしら有益な助言のひとつでもいただけるのではと思って、ご意見を伺ってみたのですが、大して参考にはなりませんでした。自分で考え ることにします」
    駄々をこねるような嫌味を投げ返してやり、私は腰をあげかける。
    「ほんとにガキだな、お前は。まあ、いいからもうちょっと聞けや」
    私の顔をろくに見もせず、華原さんは片手をひらひらと縦に振りつつ私を制した。
    「なんですか。時間がないんです。 嫌味っぽい説教なら、もうたくさんですよ」
    「アホ。説教なんかしてねえよ。〝偉大なる先達〟として、正しい拝み屋としての在り方をお前に教示してやってんだろうが」
    悪びれるような素振りもなく、華原さんは私の嫌味を平然と嫌味で切り返した。
    「なあ、拝み屋ってのは本来、地味な仕事だ。 お前が普段手がけてる仕事を思いだしてみろ。家内安全に交通安全。 安全祈願に合格祈願。 地鎮祭に土地祓い、屋敷祓い。あとはなんだ? せいぜい先祖供養にペット供養。 それから しょぼい魔祓いとか、そんなもんだろう?」
    確かにそのとおりだったので、渋々ながらもうなずく。
    「けど、地味でいいんだ。拝み屋ってのは本来、そういう仕事だ。たまたま商売で扱うのが神だ仏だ霊だ運だと、そういう目に見えねえあやふやなもんばっ かだから、うっかりするとテメエの立ち位置がどういうもんなのか、その本質 を忘れちまうことがある」
    華原さんの道理はいちいちごもっともではある。しかし、この逼迫した状況 下においてはただただ焦れったいだけの話だった。だが、それでも彼の弁舌は止まらない。
    「拝み屋ってのは言うなれば民間療法よ。気休めよ。まかり間違っても人知を 超えた特別な存在なんかじゃねえし、そんな力もありゃしねえ。お前もせいぜ い幽霊が視えるぐらいだろ。しょぼいったりゃありゃしねえ。 そんなお前が、 わけの分かんねえ生首だの絶叫小僧だのとどうやり合うんだよ? だから言っ てんだ、こいつはお前にゃ荷が重過ぎるって」
    初め、飄々としていたはずの華原さんの口調が、いつのまにか少し鋭いものになっていた。
    「拝み屋を長く続けるコツってのはな、どうやって闘うかじゃねえ。どうやっ て逃げるかだ。さすが年の功よ、水谷の爺は懸命だ。やばい案件からは早々と手を引く。てめえにできねえことは絶対に手がけねえ。お前もこの仕事をこれ から長く続ける気でいるんなら、覚えとけ。英雄になろうとするな。てめえの器を考えて動けるのが、本物の拝み屋ってもんだ」
    声色は鋭いが、まるで必死に私を宥めすかすかのような口ぶりだった。それにいつもより話がくどい。なんだか私を無理にでも引き留めようとしているような印象さえも感じられる。
    じりじりしながら話を聞くも、華原さんの講釈はなおも止まることなく続いた。
    「普段、しょぼい魔祓いだの生霊返しだのをやってると、自分にはすげえ力が あるんだとか、ついついそういう勘違いをしちまうもんだ。 けど、そういうも んの大半は依頼主の勘違いか、さもなくば思いこみだろ。よしんばホンモノだったとしても、きちんと手順どおりに拝めば、大半はなんとかなるもんだ。 でもよ――」
    そこで、間を置いたのち、華原さんはゆっくりとした口調でこう続けた。
    「およそ一万分の一――さもなきゃ十万分の一ぐらいの確率で、俺ら拝み屋は とんでもない "例外〟にぶち当たることがある。はっきり言うぞ? 今回のが それだ」
    断言するなり、華原さんは卓上に広げた家系図に人差し指をちょんと乗せた。
    「俺が前に話した、早紀江ってお姉ちゃんがいただろ? 霊能者の親父を呪ったばっかりに、おふくろさんがとばっちりで死んじまったってやつ」
    「ええ、覚えてます。 その話がどうしたんです?」
    突として家系図の上に乗せられた華原さんの指で、答えはもうすでに分かった。
    華原さんの答えを待ちながら、心臓がばくばくと早鐘を打ちだす。
    「早紀江の姓は椚木ってんだ。この家系図にもちゃんと名前が載ってる。インチキ霊能者の親父は、百合子の旦那の二番目の弟。絶倫鬼畜だった鉄男爺さん の、すぐ下の弟になるな。
    華原さんが指し示した箇所には、確かに早紀江の名前があった。その名前の 上に引かれた線をたどっていくと、確かに華原さんの言葉どおり、椚木百合子の夫へと線が行き着いた。
    「それでな、十日ぐらい前にこの早紀江がまたうちに来たんだわ。どんな用件だと思う?」
    ―親戚のガキに鼓膜を破られたんだとよ。
    華原さんの放ったひと言に、全身に電流が流れるような震えが生じた。
    「場所は早紀江の家の玄関口。買い物から帰ってきたところをあっというまだったらしいわ。でもあのガキ、パクられなかったぜ? お前も知ってのとおり、相変わらず野放しよ」
    驚くべきことに、この時は真也と一緒に母親の千恵子も同行していたのだという。
    「騒ぎを聞きつけた親父がすっ飛んでくるなり、即示談よ。 おふくろが土下座して金だして。たんまり積んだみてぇだな。 ろくでなしの霊能親父もすんなり手を打ってしまったんだとよ。それで本人はまた頭にきちまって、俺に「親父を呪い殺してくれ』って泣きつきやがってな。断るのがもう大変だったわ」
    言いながら華原さんの顔は若干、蒼ざめていた。
    「な? 話がまたでかくなっちまったろ? 偶然だって言っても、ちょっと無理があるわな。仮にこれが偶然だとしても、それは信じられねえような確率の偶然だ。だから多分、これは偶然なんかじゃねえ。お前、知らず知らずの間に 搦めとられちまったんだよ。このでっかい例外〟にばかりかお前のとばっ ちりで、俺までこうして巻きこまれちまった。この辺が潮時だ。これ以上関わると、命まで危なくなっちまう。だからやめろって言ってんだよ」
    華原さんの言わんとしていることはよく分かった。全身を包む震えも止まらない。
    私がこれから手がけようとしていることが、どれほど危ういことであるのか も了解できた。
    ただ、それでも私の心は椚木の"母様〟を処分することから離れなかった。
    「すみません。それでも行ってきたいんです。高鳥千草のお祓いではなく、供養をしたいし、あの“母様〟が芹沢真也の手にみすみす渡るのも我慢ができません」
    ですからやはり行ってきます。言い終えるなり私は、すっくと立ちあがった。
    「―――お前、 このまま行ったら多分、そのガキぶん殴るだろ?」
    仕事用の着物に袖を通す私の背中に向かって、華原さんがため息混じりに声をかけた。
    「そんなことはしませんよ。ただ行って供養して、母様を処分してくるだけです。
    「証明は? それをお前が絶対しないって証明はできんのか?」
    「できませんよ、そんなもの。とにかくしないと言ったらしません。大丈夫です」
    そんなことを言いながらも、本当は全く自信などなかった。あのガキの顔を頭の中で想像しただけで、殴り殺してやりたいという気持ちが私の胸中にぐらぐらとたぎっていた。
    「信用できねえ。 まったくもって信用できねえな」
    私の胸中を見透かしたように、華原さんが言う。
    「だったらどうしたらいいんですか? 証明なんてできませんし、俺は行きますよ」
    「―――お前が警察の厄介になんねえように、俺が監督してやる」
    「なんですって?」
    華原さんの意外なひと言に驚き、思わず振り返る。
    「一緒に行ってやるよ。だけど依頼主から出る謝礼は俺の総取りだ。拝むのもまとめるのも俺が中心になってやるんだから、それぐらいは当たり前だろ?
    この条件を呑むんだったら、一緒に行ってやる。 どうだ、乗るか?」
    胸元にがっしりと腕を組みながら、華原さんがまっすぐに私の顔を見あげた。
    「そんなに俺のことが信用できませんか?」
    そうは言ったが、単なる形式的な返答である。内心はこのうえなく心強いと思っていた。
    「ああ、信用できねえ。お前、ガキだから。 それにな? その〝母様〟の件だってそうよ。お前一体、どうやって処分する気なんだ? なんか当てでもあんのか?」
    改めてそのように問われると、完全に無策だったことに今さらながら気づかされる。
    私は言葉に詰まり、無言になった。
    「なんだよ、思ったとおりか。じゃあ、そっちも俺がなんとかしてやる。で、どうなんだ?俺も一緒に連れていくのか行かねえのか、さっさと決めろよ。ガキ」

    それから数分後、私は助手席に華原さんを乗せ、千草の自宅へ向かって車を 飛ばしていた。
    仕事帰りに私の自宅へ立ち寄ったため、華原さんも仕事時の着物姿だったのも幸いだった。私たちは華原さんの自宅に寄り道することなく、そのまま千草の家に向かうことができた。
    華原さんの助言で、千草の自宅に我々が到着するまで昭代には連絡を入れな いことにした。私たちが千草の家へ到着したのち、その場で連絡を入れる段取りにした。
    「珍しいですね。今夜はどうしてこんなに面倒見がいいんです。やばい案件なんでしょう? なんだか巻きこんだみたいで、申しわけなく思ってますよ、俺は」
    ハンドルを握りながら華原さんに問うと、華原さんは「ま、いろいろあるがな」と答えた。
    「その絶叫坊主のご尊顔をぜひに拝んでみたくなったのよ。早紀江の仇討ちってとこだわな。お前と一緒だ」
    ひと泡吹かせてみたくなったのよ――。
    助手席にもたれかかりながら、華原さんは「げはは」と下卑た笑い声をあげた。
    その手には、古びた小ぶりな銅剣が握られている。 華原さんが魔祓いの儀式で使うという、全長三十センチほどの銅剣である。
    「まあ、これでぶん殴ったりはしねえけどよ」
    言いながら華原さんは腰帯の脇に銅剣を挟みこんで、ぽんぽんと叩いてみせた。
    深闇に包まれた田舎道を突っ切り、車は一路、高鳥家に向かって猛然と突き進んでいく。

母様 【平成十七年八月二十二日 午後十時三十分】


    千草の自宅前に車を停め、昭代の携帯電話に連絡を入れてさらに三十分後。
    暗闇に押し包まれた住宅地の向こうから、二台の車が現れた。
    一台目は白塗りの軽。そのうしろには、見覚えのある黒塗りのセダンが続いてきた。
    軽から降りてきたのは、昭代。
    黒塗りのセダンから出てきたのは案の定、真也と千恵子だった。
    「こんな遅い時間に申しわけありません。今夜はなにとぞ、よろしくお願いします」
    昭代が慇懃に会釈する傍ら、背後に並んだ真也と千恵子は、まるで値踏みするかのような目つきで華原さんの姿をじろじろと眺めていた。
    「あんた、郷内センセーの師匠かなんかっすか? それにしちゃあ失礼かもしんないすけど、なんかみすぼらしい恰好っすね」
    開口一番、牽制球といった調子で、さっそく真也が華原さんに暴言を吐く。「すみませんね。儲かんない仕事なんすよ。 なかなか一張羅を買い替える余裕もないんです。まあ、こう見えても腕は悪いほうじゃないんで、なりについてはご勘弁願います」
    着物の両袖をむささびのように広げ、華原さんがおどけてみせる。
    華原さんが仕事用に着ているえんじ色の着物は、あちこちに綻びが生じた、 確かに古くてみすぼらしい代物である。駆け出し三年目で、まだまだ仕立てて 新しい私の着物姿と並ぶと、その経年ぶりが一際目立つ。だが、真也にどうの こうのと言われる筋合いもない。
    「ふうん。口で言うなら誰でも言えますけどねえ。 ま、お手並み拝見っすわ」
    あからさまに人を小馬鹿にした口調で、真也は再度華原さんを挑発した。
    その傍らに佇む千恵子も、華原さんの姿を見ながら奇妙な薄笑いを浮かべるばかりである。もはや息子の暴言をたしなめることすらなく、完全に同調して いるようだった。
    しかし、当の華原さん本人はそんなものなど何処吹く風といった面持ちで、 「へへへ」と笑いながら軽く受け流すだけだった。

    昭代に鍵を開けてもらい、家の中へ通される。
    その後は前置きもそこそこに、千草が亡くなっていた居間で華原さんの拝みが始まった。
    仏壇はおろか、位牌すらもない居間の座卓を経机に見立て、供養の経を淡々と誦する。
    黙したまま傍らに座して経を聞くうち、様々な記憶が私の脳裏をよぎっては 消えていった。
    六月の初め、真夜中に初めて千草の家を訪れた時のこと。同じく六月の下旬、この居間で千草の口から「怪談」と称した奇妙な半生を聞かされた時のこと。
    あの時よもや、こんな事態になるなど思いもよらぬことだった。
    この居間にある座卓を挟んで、私に母様"や木の家に関する情報を小出しにしてきた、あの日の千草の声や表情、身ぶり、手ぶり。その意味がもたら す何もかもを理解している今、彼女の願いをもっと早くに気づいてあげられな かったことに、私は心底後悔させられていた。
    居ても立ってもいられず、華原さんの読経に合わせ、私も経を唱え始める。「お母さん」と口にするたび、目元を嬉しそうに綻ばせていた千草の顔。
    娘の美月を指して「誰が親とか関係ないんだよ!」と叫んでいた千草の顔。
    あの顔も、その顔も、とても素直で、まっすぐな想いの籠った顔だったと思う。
    残酷だ。千草は自分に与えられた人生を、ひたすら必死に生きていただけなのに。
    自身や娘の出生に関する複雑な生い立ちや、昭代から理不尽に疎まれることさえなければ、千草はきっと幸せに生きられていたはずなのだ。
    倦みつかれた昭代に「お母さん」と寄り添ってあげられる、親孝行な娘として。
    そんな光景が脳裏に思い浮かぶと、否応なしに涙が溢れて止まらなくなった。
    同時に千草がなぜ、屋根裏の生首を「母様」と呼ぶのかも分かった。
    千草がいちばん欲しかったのが、 「母」だったからである。
    無条件で自分のことを受け容れて甘えさせてくれる、優しく寄り添って抱きしめてくれる、ただそれだけのごく当たり前の存在が、幼い頃からどんなもの より欲しかっただけなのだ。
    残酷だ。本当に残酷だ。産みの母も育ての母もそばにいたのに、それでも母という存在を欲しがり、母の愛情を渇望した千草の人生が、どこまでも哀れなものに思えてならなかった。
    「おい!お前ら何やってんだよ!」
    背中に突然突き刺さった鋭い怒声に、はっと現実へ引き戻される。
    同時に華原さんと私の読経もぴたりと止まる。
    振り返ると真也がぬっと立ちあがり、私たちを憎々しげな眼差しで見おろしていた。 「お前らちょっと、何やってくれてんの? それ、供養のお経じゃん。俺らが頼んでんのはお・祓・い。悪霊になった千草を祓ってほしいっつってんだけど?」
    反射的に立ちあがって殴りつけてやろうとしたとたん、華原さんに襟首をむんずと掴まれ、床の上に引き戻された。
    「黙ってろ、小僧」
    ドスの利いた声で真也にひと声言い放つなり、華原さんは再び供養の経をあげ始める。
    だが、それでも真也はしつこく噛みついてきた。
    「そうかよ。分かった。もういいよ。 そんなに言うなら俺が祓うわ。お前ら帰れ」
    はあ、と大きなため息をつき、華原さんが面倒臭そうに真也のほうへ再び向き直る。
    「あん、祓うだあ? んなもん単なる建前だろう? 俺らはここで千草の供養 してっからよ。いいからお前はさっさと、この家ん中から欲しいもん探しだせよ」
    見つけられるもんならな――。
    華原さんが目を剥いて笑うと、真也も負けじと歯を剥いて笑った。
    「あ?何言ってんの? 俺はね、昭代おばさんが千草の霊に悩まされてるって聞いたから、わざわざこうして出張ってきてんの!あんたらが偉そうな顔 してしゃしゃり出てこなきゃ、別に俺ひとりでやってるっつってんだよ!」
    「あっそ。 まあいいや。 勝手に吹いてろ、 心霊小僧」
    虚勢を張りだす真也に構わず、続いて華原さんは昭代に向けて語りかけた。
    「まあそんなわけなんですよ、椚木さん。この坊ちゃんの言うとおり、私が今やってるのは娘さんのお祓いじゃなくて、実は供養なんです。 すみませんねえ、ご要望に応えられなくて。で、あなたもやっぱり、死んだ娘が祟ってるん だとか、本気で考えてるわけですか?」
    華原さんと真也のやりとりをはらはらしながら見ていた昭代は、華原さんから向けられた唐突な質問に怖じ怖じしつつも答えだす。
    「....はい。だってあの娘、にやにや笑って恐ろしい顔をして、わたしの枕元に立つんです。 姑の時と同じです。 わたしはもう、あんな恐ろしい思いをするのはたくさんなんです......。 どうかお願いです。 娘をきちんと祓ってください……」
    「バカこの」
    昭代の切々とした訴えをうっちゃるように、華原さんはひと言短く罵った。 「それはなあ、『にやにや』じゃなくて『にこにこ』の間違いだろうが、この バカ親が!」
    華原さんが突如発した怒声に、昭代は短く悲鳴をあげて身を引いた。
    頼んでんのはお・祓・い。悪霊になった千草を祓ってほしいっつってんだけど?」
    反射的に立ちあがって殴りつけてやろうとしたとたん、華原さんに襟首をむんずと掴まれ、床の上に引き戻された。
    「黙ってろ、小僧」
    ドスの利いた声で真也にひと声言い放つなり、華原さんは再び供養の経をあげだが、それでも真也はしつこく噛みついてきた。
    「そうかよ。分かった。もういいよ。 そんなに言うなら俺が祓うわ。お前ら帰れ」
    はあ、と大きなため息をつき、華原さんが面倒臭そうに真也のほうへ再び向 き直る。
    「あん、祓うだあ? んなもん単なる建前だろう? 俺らはここで千草の供養してっからよ。いいからお前はさっさと、この家ん中から欲しいもん探しだせよ」
    見つけられるもんならな。
    「バカこの」
    華原さんが目を剥いて笑うと、真也も負けじと歯を剥いて笑った。
    「あ?何言ってんの? 俺はね、昭代おばさんが千草の霊に悩まされてるっ
    て聞いたから、わざわざこうして出張ってきてんの! あんたらが偉そうな顔 してしゃしゃり出てこなきゃ、別に俺ひとりでやってるっつってんだよ!」
    「あっそ。 まあいいや。 勝手に吹いてろ、心霊小僧」
    虚勢を張りだす真也に構わず、続いて華原さんは昭代に向けて語りかけた。
    「まあそんなわけなんですよ、椚木さん。この坊ちゃんの言うとおり、私が今 やってるのは娘さんのお祓いじゃなくて、実は供養なんです。 すみませんねえ、ご要望に応えられなくて。で、あなたもやっぱり、死んだ娘が祟ってるん だとか、本気で考えてるわけですか?」
    華原さんと真也のやりとりをはらはらしながら見ていた昭代は、華原さんから向けられた唐突な質問に怖じ怖じしつつも答えだす。
    「...............はい。だってあの娘、にやにや笑って恐ろしい顔をして、わたしの枕元に立つんです。 姑の時と同じです。 わたしはもう、あんな恐ろしい思いをす るのはたくさんなんです......。 どうかお願いです。 娘をきちんと祓ってください」
    昭代の切々とした訴えをうっちゃるように、華原さんはひと言短く罵った。 「それはなあ、『にやにや』じゃなくて『にこにこ』の間違いだろうが、この バカ親が!」
    華原さんが突如発した怒声に、昭代は短く悲鳴をあげて身を引いた。
    「あんた、自分の娘を見る目にずいぶん濃い色眼鏡を掛けてんだな。さもなきゃ、恐ろしく理不尽な先入観だ。 大体おかしくねえか? 娘は小っちゃな頃 から『お化けが見える』ってあんたに訴え続けてきたんだろ? そんな話は 『嘘つき』のひと言で突き放したくせによ? なんだ? この坊主がほざく 『千草が悪霊と化しております!』なんて話は鵜呑みかよお?おかしいじゃ ねえか。 要するにあんた、ただ単に娘のことが嫌いなだけなんじゃねえか」
    「俺が言ってることが嘘だって言うのかよ、この――」
    「いいからてめえは黙ってろ!」
    華原さんの発した凄まじい怒声に、真也も言葉を止めて凍りついた。
    「............娘が 『にこにこ』って、どういう意味なんですか?」
    昭代の質問に、私の口が勝手に開く。
    「椚木さん。椚木さんがどんなに娘さんのことを嫌っていても、千草さんはあ なたのことがずっと好きだったみたいですよ? よく思い返してみてくださ い。娘さんがあなたに心ない暴言を吐いたり、あなたに乱暴を働いたりしたこ とがありますか。 私の推測に過ぎませんが、おそらく一度もないと思います。 むしろあの人は、あなたに好かれたくって、甘えたくって、あなたに纏わりついてきたことのほうが多かったんじゃないですか?」
    私の問いかけに昭代は答えない。否定も肯定もしなかった。
    「そんな健気な娘さんです。 だからその笑顔は、あなたを苦しめるためなんかじゃない」
    あなたを慕い、あなたの身を案じてるからこその笑顔だと思います――。
    私が独りごちるようにそう言うと、昭代の顔が呆けたように弛緩した。
    「嘘だと思うなら、どうかもう一度、枕元に出てきた娘さんの顔を思いだしてみてください。きっと優しい顔だったって、思いだせるはずです」
    私の言葉が終わるのと同時に、華原さんが再び座卓の前に身体を向き直らせた。
    そのまま昭代に背を向け、温和な口調で語りかける。
    「確か明日は、娘さんの葬儀なんでしょ? 娘の葬儀の前夜に娘の魂を祓って滅ぼすなんて、そんなひどい母親がいますか? まだ遅くはない。 私は娘さん のために供養の経を唱えたい。 あなたからのお願いだということにして。 お経あげてもいいっすかね?」
    つかのま沈黙したあと、昭代は涙声で「お願いします.......」とつぶやいた。
    「それはいいですねえ。 これでやっと娘さんも浮かばれるってもんだ。歓ぶと思いますよ? すっかり遅くなっちまったけど、今までの人生で娘さんがいちばん欲しかったプレゼントだ。母親からの愛情。 違いますかね?」
    冗談めかした華原さんのひと言に、昭代は「わっ」と声をあげて泣き始めた。
    「とんでもねえ茶番だよ、このインチキども」
    そこへすかさず真也が口を挟んだ。
    「なんだ。 まだいたのかよ。 さっきも言ったろ? 仕事の邪魔だ、黙ってろや」
    「うっせーよ。何が供養だ。 千草は確かに祟ってんだよ。適当なことほざいてんじゃねえ」
    「まあなあ。確かにお前にだったら祟るかもしんねえわな。 ところでお前、すげえ必殺技を持ってんだってな。 名前はなんつうんだっけ? ハリケーンボイスか? ゴッドボイスか? まあ、なんでもいいや。その声で俊樹と早紀江と 千草以外に何人やったよ?」
    「っせえな。がたがたほざいていると、お前にもやっちまうぞ。 この間もやったばっかだよ。身内の女子高生。 テスト不合格。でも関係ねえ。これで悪い芽 がまたひとつ消えたから」
    真也の吐いた「身内の女子高生」というひと言に思わずぎょっとなる。椚木家の家系図で女子高生に該当するのは、ひとりしかいないのである。
    「......お前、 その女子高生って、もしかして皆川さんとこの娘か?」
    皆川家の娘・美緒は、六月の半ば、自宅の前庭に夜な夜な現れるという人狼に怯えていたあの少女である。
    「このガキ!」
    「おお、よく知ってますね。ビンゴ。何? いろいろ嗅ぎ回ってるんすか?俺のこと」
    発作的に拳が振りあがり、真也に向かって足を踏みだす。しかし、すんでのところで再び華原さんに襟首をつかまれ、私はその場に踏みとどまらされた。
    「おーおー、おっかねえ。 インチキの次は暴力っすか? ほんとにあんた、クズなのな」

    鼻先でせせら笑う真也を尻目に、華原さんが口を開く。
    「クズはお前だろうが。簡単にボロ出しやがって。 クズのうえにバカなのかお前?」
    華原さんに引きだされた真也の言葉を聞いた昭代の顔色がみるみるうちに 曇っていくのを、私は横目で確認していた。
    今や昭代の真也を見る目は、完全に疑惑のそれにすり替わっている。信頼を 取り戻すのはおそらく不可能だろう。まさにボロをだしてしまったのである。
    華原さんの言葉どおり、馬鹿なのだと思う。
    ただし、クズというよりはイカれているのだ。
    六月に初めて会った際、こいつは「これから身内の若い世代でゴタゴタが起きる」などとほざいていた。なんのことはない、ゴタゴタを起こしているのは 当の本人である。
    だが、真也自身にその自覚はまるでない。おそらくこいつは、椚木の一族の若い世代から、自分と同じように〝母様〟ないしは〝至純の光"を狙う者が現 れると踏んでいるのだ。
    馬鹿馬鹿しい話である。しかし馬鹿だからこそ、そんな妄想を信じきって動き回るのだし、イカれているからこそ、「仇」と見做した標的を最悪の形で潰しにかかる。
    加えてあの凄まじい大絶叫である。確かにこいつは妄執にとり憑かれた程度 の低い男だが、それゆえに何をしでかすのか分からない末恐ろしい存在だと思った。
    「大体だなあ、お前が『欲しい、欲しい』と嘆いて必死で探し回ってる青春の光だっけか? あれだってなんの値打もねえ、クズじゃねえかよ?お前がクズだからクズに惹かれるって、そういう理屈か? アホらしい。さっさと目ぇ 覚まして真面目に就職活動しろや」
    胡乱な顔をこしらえ、華原さんがあけすけに真也をバカにしてみせる。
    「うるせえ! 貧乏臭え拝み屋なんぞにあれの素晴らしさが分かってよ。お前なんか、目にしただけで頭おかしくなっちゃうぜ? 軽々しくほざい てんじゃねえ」
    「そうかあ? そんなにやばいもんなのか、それ。そうかそうか。そんなに言 うならじゃあちょっとためしてみっか」
    ぼりぼりと頭を掻き毟りながら、華原さんが腰帯からおもむろに銅剣を引き 抜く。 続いて居間から台所へ続く引き戸を開けると、戸を開け放ったまま台所の中へと入っていった。
    「お前が探してんのって、これだろ?」
    言いながら台所の床にしゃがみこみ、床面に設えられた貯蔵用の蓋をばかりと開ける。
    それは六月四日の深夜、私が初めて千草の家を訪ねた折、頭上で白い人魂が 回転するなか、美月がしゃがみこんでいた、まさにその場所だった。
    「おお、あったあった。 多分、これなんだろうなあ」
    ほくほく顔で床下の穴に片手を突っこみ、華原さんが何やら黒い塊を持ちあげた。
    それがなんなのか分かった瞬間、わたしの心臓がざらりとなって凍りつく。
    華原さんが床下から摑みあげたのは、異様に髪の長い少女の生首だった。
    それは私がよく知っている――。 というよりは、知っていることを心から消し去りたいと願ってやまない、この世ならざるある少女の生首だった。
    少女の首は私と目が合うなり、両目を皿のようにかっと大きく見開き、大仰に笑った。
    それは、千草が語っていた〝母様〟の相貌とは、まるで異なるものだった。 千草の推察が正しいのであれば、〝母様〟は見る者によってその容姿を変える存在である。 千草には多分、理想の母たる美しい女性の顔に見え、真也には光り輝く宝石に、百合子には黄金色に輝く仮面のようなものに見えていたと聞かされている。
    いずれも当人たちが心から欲するものや、美しいと思えるだろうものばかりである。
    ならば〝母様〟がこんなものに見える私は、なんなのだ。
    私がこんなものを、欲しているというのか。私が欲しいと思うのは、こんな ものなのか。
    こんなもの、私はいらない――。
    しかし少女の首は華原さんの手の中で、それでも私に向かってにたにたと笑いかけてくる。
    「あああああ! それそれそれ! それだ! こっちによこせよ、馬鹿野郎!」
    凍りつく私の傍らをすり抜け、真也が華原さんの許へ猛然とした勢いで駆け寄った。
    「何が『それそれ』だ、バカタレ。こんなもんはなあ、こうしてくれるわ」
    呆れ顔でつぶやくなり、 華原さんが手にした生首をぱっと頭上へと放り投げた。
    次の瞬間、落下してきた生首めがけて、手にした銅剣を両手で思いっきり振りかぶる。
    銅剣は生首の後頭部を的確に捉え、そのまま私たちの間を掠めて居間の壁へと激突した。
    とたんにがらがらと乾いた音が居間じゅうに鳴り響く。
    驚きながら生首の落下した床の上に視線を向けると、そこには何かの骨とおぼしき破片が、粉々に砕け散って散乱していた。
    「てんめええええええええええええええええええ!」
    一瞬、呆然としていた真也がはっと我に返り、胸元にすっと空気を充填した。
    あれをやる気だ。
    瞬時に察した私は、すかさず真也に飛びかかる。
    「邪魔だ、オラア!」
    しかし、真也の身体に組みつくその直前、真也が繰りだした鉄拳を鼻面に喰らってしまい、私はその場にどっかと尻もちをついた。
    「ああこれ、正当防衛な」
    鼻先を突き抜ける激痛に顔を歪ませていたところへ、華原さんが私の目の前 を風のようにすり抜けていく。頭上を見あげた次の瞬間には、渾身の力をこめた華原さんの拳が、 真也の頬にめりこんでいるところだった。
    拳をもろに浴びた真也は、そのまま居間の壁まで紙のように吹っ飛んでいった。
    「真也くぅん!」
    千恵子が悲鳴をあげて、居間の壁際に倒れこんだ真也の元へと駆け寄る。
    同時に華原さんも真也へ向かってずかずかと歩み寄っていく。
    私もどうにかよろよろと立ちあがり、華原さんのあとに続いた。
    「くそ、くそ、くそ......。 お前ら、呪われろ。呪われちまえ、馬鹿野郎・・・・・・・」
    私たちの顔を見あげ、 真也は性懲りもなくわけの分からない印のようなものを切り始めた。しかし、その顔は恐怖と絶望ですっかり色を失い、怯えきっていた。
    「呪いは衝動でやるもんじゃねえ。 クールにやるもんだ。 お前の呪いなんざ効くかよ」
    真也の目の前に華原さんがしゃがみこむと、真也はさらに顔をひきつらせ、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。視界の端に違和感を覚えて目を向けると、真也の股間から生暖かい小便がしとどに噴きだしていた。
    「もう何もしねえよ。 正当防衛だって言ったろうが。......けどな小僧、よーく聞いとけよ」
    華原さんの声が一際低く、たっぷりとドスを利かせる。
    「今度会ったら殺すぞ」
    ぎろりと目を剥き、 真也の鼻先まで顔を近づけ、華原さんがぼそりとつぶやいた。
    とたんに真也は弾かれたように飛び起きると、獣のような叫び声をあげながら玄関口から外へと飛びだしていった。その背中を千恵子もあたふたしながら 追っていく。
    「さて。これで邪魔者はいなくなったな。椚木さん、ちょっとお騒がせしてし まいましたが、娘さんの供養、続けさせてもらってもいいですかね?」
    突然の修羅場に昭代もすっかり顔色を失っていたが、それでも昭代は一呼吸 整えたのち、「お願いします」と頭をさげた。

    それから華原さんとふたりで、千草のために改めて供養の経を誦した。私は真也に殴られた鼻がじんじんと痛く、経を唱えるのに大層難渋させられた。
    無事に供養が終わると、それからしばらく昭代と話をした。
    今まで昭代の知ることのなかった〝母様"の話を始め、千草がどれほど昭代のことを想い、その愛情に焦がれ続けてきたのかを、ありのままにとうとうと 語って聞かせた。
    およそ突拍子もない話だったにもかからわず、それでも私が全てを語り終えると、昭代は泣きながら「明日の葬儀はあの娘の母として、優しく送りだしてあげます」と答えてくれた。
    ただひとつだけ、再三悩んだ末に美月の出生の真相に関してだけは伏すことにした。
    誰が父親であろうと関係ないと千草は私に言った。彼女の意向を尊重することにしたのだ。
    美月はこの晩、実家へ手伝いに来ていた菊枝さんとふたりで留守番をしてい るのだという。
    孫としてかわいがってあげてくださいねと、私がお願いすると、昭代は「娘の忘形見だと肝に銘じて大事に育てます」と応え、さらに目頭を熱くさせた。

    門前で昭代に別れの挨拶を済ませ、車を走らせる頃にはすでに日付を大きく跨いでいた。
    時計を見ると、もうそろそろ二時である。
    「よお、牛丼おごれや」
    車が市街地に入ってまもなくした時だった。道端で仄かに輝くオレンジ色の ポール看板にぎらぎらと目を光らせながら、華原さんが私に言った。
    今宵の個人的なお礼にと思い、私はふたつ返事で牛丼屋の前へ車を停めた。
    「結局、母様ってなんだったんですかね?」
    閑散とした店内のカウンター席に並んで座り、華原さんに尋ねた。
    「何ってお前? ただの動物の骨だろ、あんなもん」
    特盛に生玉子をふたつも落とし入れた牛丼を頬張りながら、事も無げに華原さんが返す。
    「確かに華原さんが叩き壊したあとにはそうでしたよ。ただ、その前までの状 態は、俺にはそうは見えませんでした。 華原さんも本当は何か見たんじゃないんですか?」 あの一瞬、この目でしかと見た忌まわしい少女の生首を思いだし、首筋に再び鳥肌が立つ。
    だが、華原さんの返答は意外なほどにあっけないものだった。
    「そんなもん見えるわけねえだろ、アホ。ただの骨だっての」
    いかにも興味なさげに答えると、再び牛丼に顔を戻す。しかし私は、納得がいかなかった。
    「嘘ですよ。十万分の一の例外とか、人を脅かしたくせに。あれは一体なんな んですか?」
    はあ、と呆れたため息をつきながら、華原さんが私の顔を覗きこむ。
    「ま、いろいろと曰く因縁のある骨なんだろうけどよ。 そんなもんは仕事が無事に終われば気にするようなことじゃねえ。いつまでもうじうじくだらねえこ と言ってねえで、とっとと忘れろや。大体だな、俺が前に言ったこと、忘れてんぞ。謎を解くのが拝み屋じゃねえんだ。なんならもういっぺん覗いてみろ。 どう見たってただの骨なんだよ、あんなもんは」
    言い終えるなり、華原さんは黙々と牛丼を掻きこんだ。
    母様とおぼしき骨はあの後、ゴミ袋に詰めこんで千草の家から回収していた。
    牛丼屋を出たあと、私と華原さんはそれを、地元の川の橋の上から投棄した。
    逆さまにしたゴミ袋の口から暗い川面へ向かって落下していくそれは、やはりどう見ても何かの動物の骨のようにしか見えなかった。
    自宅へ戻ると華原さんに丁重に礼を述べ、門口を出ていく華原さんのボロ車を見送った。
    とんでもない一夜だったが、華原さんがいてくれたおかげでどうにか事は全て丸く収まり、私は安堵のため息を深々と漏らす。
    布団に入ると眠気を催すのもあっというまで、私はただちに深い眠りへと落いた。

畜仆し罪 【平成十七年八月二十三日】


    翌朝の午後一時過ぎ。恋さんからの電話で、私は目を覚ました。
    電話を受け、寝ぼけた頭で恋さんの話を聞くうち、私はみるみる色を失って華原さんが、亡くなったのだという。
    そのまま信じられない心境で華原さんの家へとただちに車を飛ばした。
    「どうか間違いであってほしい」という願いと「あの人はもうこの世にいないんだ」という予感がざわざわと心中で交錯し、 蒼ざめながらハンドルを握る私 の心は千々に乱れた。
    華原さんの自宅へたどり着くと、玄関戸の前に宇治衛門がいた。
    普段なら私が近づくどころか、門口に車が入ってきただけで逃げだすようなこの臆病者が、この日に限って玄関前にちょこんと座り、玄関口を見つめたま ま、その場を動く気配がない。尋常ならざる狸の様子が、私の心に生まれた冷 たい予感をさらに大きく膨らませた。
    「いらっしゃい。ありがとう。 さあ、入って」
    玄関を叩くと、すぐに恋さんが出てきて私を奥の座敷へと招き入れてくれた。
    赤々と泣き腫らした恋さんの目を見ただけで、もう嘘という答えはないだろうと確信した。
    家内の奥座敷は、華原さんの仕事部屋として使われていた部屋だった。床の間には自前の簡素な設えの祭壇がつつましく設けられている。
    そして――。
    部屋のまんなかには布団の中で眠ったように固まる、華原さんの姿が確かにあった。
    それは私にとって何よりも見たくない光景であり、認めたくもない光景だった。
    その場にどっかと身を伏し、声をあげてしばらく泣き崩れたあと、わななく声で恋さんに「何があったんですか?」と尋ねた。
    「昨夜遅く、『心瞳に牛丼おごってもらった』なんて言いながら、あの人帰ってきたの」
    さらさらと清水のような涙を頬筋に伝わせ、だがその顔には柔和な笑みを浮 かばせながら、恋さんはゆっくりと語り始めた。

    帰宅後、華原さんはまもなく、仕事部屋に布団を敷くよう恋さんに頼んだのだという。
    最初は酔って冗談でも言っているのかと思ったのだが、華原さんはシラフだった。
    言われるままに布団を敷いてあげると、華原さんは寝間着に着替えて布団の中に潜りこみ、そのまましばらく恋さんのお酌で横になったまま酒を呑んだ。
    それからふたりは、馴れ初めの頃から今へと至るまでの話を、互いに記憶を たどりながら細々と交わし合ったのだという。
    華原さんは柄にもなく 「今まで辛かったか?」「悪かったな」などと恋さん に頭をさげた。
    「やめてよ、気持ち悪い」
    そんな言葉を投げ返す恋さんの目からは、なぜだか意味も分からず、そのうち勝手に涙がこぼれ始めた。
    「今晩何かあったの?」という恋さんの問いかけに、華原さんはついぞ答えなかったという。
    代わりに彼は恋さんにこんなことを頼んだ。
    「俺の銅剣、心瞳にやってくれや。俺はもういらねえから、あいつにやる」
    「うん、分かった。約束するね」
    泣きながら答えた恋さんの胸中には、この時もうすでにある種の覚悟が湧いていた。
    それからしだいに華原さんの言葉が、ぽつりぽつりと少なくなっていった。
    話す声も弱々しく、瞳の輝きもなんだかひどく虚ろなものになっていった。
    「まだまだ話したいこと、いっぱいあるのよ」
    泣きながら恋さんが訴えると、「じゃあ寝るまでもう少しだけな」と笑って、華原さんは他愛のない話に力なく応じた。
    やがてすっかり日が昇り、時刻が六時を回る頃だったという。
    「じゃあ、おやすみ」
    短い言葉を最後に、華原さんは本当にゆったりと眠るようにして逝ったのだという。

    華原さんが逝った理由はすぐに分かった。
    やめとけ、お前にゃ荷が重過ぎる――。
    華原さんが昨晩吐いた言葉の意味が、今さらながらようやく分かり、絶望する。
    凄まじい悔恨と自責の念に駆られ、胸が張り裂けそうだった。半ば冗談めかしながらも、千草の家に同行してくれた時に垣間見た華原さんの物腰や立ち振る舞い、帰りの牛丼屋で交わした何気ない言葉のひとつひとつが、私の心を 次々と貫いては苦しめた。
    巻きこんでしまったからだ、私が。身代わりになったのだ、私の。
    私が殺したようなものだ。私が殺したんだ。私が殺してしまった。
    何が「ただの骨だ」と思い、再び涙が堰を切って溢れる。 「ただの骨」ではないからこそ、華原さんは重い腰をあげたのだ。自身の軽はずみな行動に、決断に、つくづく嫌気が差した。
    華原さんの身に何が起きたのか、恋さんに話す義務があると私は感じた。何もかも話して恋さんに恨まれ、憎まれ、罵られるのが、私にできる唯一の贖罪だと思った。
    しかし、口を開きかけた私を、恋さんはまるで子供をあやすかのようにそっと制した。
    「あの人だって何にも話してくれなかったんだから、別に知りたくない。知ってしまうとさ、それも含めてあの人の『最期の思い出』 になっちゃうじゃない? だからそんなのはいいの。それよりもちゃんと受け取って。見た目は古いけど、それでもあの人の形見なんだから」
    涙顔に凜とした笑みを浮かべながら、恋さんは祭壇に置かれた銅剣を私にすっと手渡した。 初めて手に取るそれは、思ったよりも軽く、驚くほど私の手に馴染むものだった。
    それから恋さんに乞われ、わたしは華原さんの遺体を前に枕経をあげた。
    葬儀はろくに貯えもないのでおこなわず、火葬だけにするのだと恋さんは言った。
    「これからどうするんですか?」と尋ねると、 「焼いてもらって骨になったら、骨を抱えて地元に帰る」と恋さんは答えた。
    元々、身寄りを当てに移り住んだ土地でもないので、名残はないと恋さんは笑った。
    火葬を終えた数日後、恋さんは華原さんの遺骨を抱いて故郷の中越地方へ 帰っていった。
    私は新幹線のホームまで付き添い、ふたりの姿が線路の彼方に見えなくなるまで、深々と頭をさげて見送った。
    結局、最後の最後まで恋さんは私を責めることがなかった。それどころか、憔悴しきった私を優しい言葉で気遣い、にこにこと笑いかけてくれるのがつら かった。
    おそらく、もう二度と会うこともないだろう。思い得ると、ひどく心が寂しくなった。 同時にもうひとつ。
    華原さんたちと過ごしたこのわずか一年半が、自分にとってどれほどかけがえのないものだったのかに気づかされ、心にぽっかり大きな穴が開いたようだった。
    それからさらに半年ほどが過ぎた、翌年の二月半ばのことだった。
    昼過ぎに仕事場で呆然としていたところへ電話が鳴った。
    出ると相手は、昭代だった。
    しばらくぶりに聞く昭代の声は、以前、 水谷さんの仕事場や千草の自宅で対 面した時とは打って変わって、とても穏やかで優しい声音に変わっていた。「お元気でしたか?」と尋ねると、「おかげさまで」と明るい答えが返ってき た。
    千草の百日を終えてまもなく、昭代は椚木の屋敷を手放したのだという。
    いろいろと思いだしたくない思い出の詰まった屋敷でもあったし、これから「ふたりで」長く暮らしていくには、あまりにも広過ぎるというのが、主たる理由だった。
    昭代はあの後、美月を引き取り、今は街場の小さなアパートで暮らしているのだという。そろそろ五歳を迎える美月はとても愛らしく、近頃はだんだん千草に顔つきが似てきたと、昭代は弾んだ声で私に語った。
    加えて、自分の孫という以上に娘であると思って美月を育てていると、昭代 は力強い声で語ってもくれた。
    幸いにも椚木の家が残した不動産をはじめとした財産が潤沢にあるため、生 活そのものは特に困窮することなく、美月をこれから育てていくうえでの前途に心配はないのだという。
    ただ、最近になって少しだけ気がかりなことがある。
    それでわざわざ私に連絡をよこしたのだと、少し重い声音で昭代は語った。どのようなことかと尋ねてみると、昭代自身の件ではなく、美月に関する相談だった。
    何事が起きたのかと思い、とたんに少し身が強張る。
    緊張しながら受話器を耳に押し当てていると、重々しい口ぶりで昭代が語り始めた。
    「美月、最近になって時々、千草の姿が見えるっていうんです。わたし、あの娘がなんだかまだ迷っているんじゃないかと、少し心配になってしまって..... 」
    緊迫を孕んだ昭代の声に反して、私の口からは「ふう」と拍子の抜けたため息がでた。
    「なるほど、そうですか。昭代さんには見えないんですか? 千草さん」
    「じかに姿を見ることはもうなくなりました。 でも、時々夢に出てくることはあります」
    「そうですか。 夢の中で千草さん、どんな顔をしています?」
    「笑っています。 にこにこ笑って、わたしに縋りついてくるんです。寂しいんでしょうか? 夢の中であの娘、しきりにわたしに甘えてくるんですよ」
    どこまで鈍感な母親なのかと思う。しかし、私はその返答に心底救われた気持ちにもなる。
    「それはきっと、迷っているんじゃないんですよ。これまでお母さんに甘えられなかった分、今になって思いっきり甘えているんです。どうぞ、気の済むまで甘えさせてあげてください。お願いします」
    私が応えると電話口の向こうで、やおら昭代のすすり泣く声が聞こえ始めた。
    さらにその背後では「祖母ちゃん、だいじょーぶ?」と言う美月の声も聞こえてくる。
    「美月ちゃん、そこにいるんですか。ちょっと代わってもらえますか?」
    昭代から電話を受けとり、美月が 「もしもし?」と不思議そうな声で囁く。「こんにちは。ねえ、ママは美月ちゃんにいつも、どんな顔をしているの?」
    美月はつかのま、 「うーん...・・・」と言葉を探したあと、それから明るく弾ん だ大きな声で、「ママねえ! 太陽みたいにいっつもぽかぽか! 笑ってるの!」と答えた。
    「そっか。じゃあ、美月ちゃんはいつでもぽかぽか、ママに暖かくしてもらってるんだね」
    語りかけると、美月は「うん!」と答えて、電話口の向こうで無邪気な笑い声をあげた。
    それを受けて、ようやく今件の一切が収まったのだと確信することができた。
    千草も昭代も、末永く優しいお母さんでありますように。
    仲のいい母娘でありますように。
    祭壇に線香を立てると、私は椚木の母たちの幸せを願って、静かにそっと手を合わせた。

己が母犯せる罪 【平成二十四年三月某日】


    千草と華原さんの逝去から七年後、東日本大震災から半年後の九月。
    私は三十路を過ぎて、かねてより交際中だった妻と結婚した。住まいは実家からほど近い、山の麓に佇む古びた一軒家。 そこを借り受け、夫婦でささやかな営みを始めていた。

    目まぐるしい新婚生活の熱気もそろそろ引き始めてきた、年明けの二月下旬 のことだった。
    ある朝を境に私は突然、四十度近い発熱に見舞われ、数ヶ月間、床に臥せることになった。 くわしい経緯と発熱の原因については前作『拝み屋郷内 怪談始末』のほうに著述したため、仔細は省くことにする。
    原因不明の発熱からひと月余りが経過し、身も心もすっかり消耗しきったある日のこと。妻と実家の母に付き添われ、私は市内の総合病院へ赴いた。
    診察後、医師からの指示でCT検査を受けることになり、院内奥にある検査 室前の薄暗い廊下へと移動する。妻と母は待合ロビーに向かったため、私は独 り、廊下の壁際に置かれた長椅子に横たわり、検査の順番を待っていた。
    長椅子に貼られた黒い合皮に片耳を押し当てると、 火照った頭が少しだけひんやりとして、わずかに気分が安らぐ。 朦朧とした意識の中、身じろぎを繰り返しながら長椅子の冷たさに身を預けているさなか、ふいに頭上へ影が差した。
    看護師かと思い、病み疲れた頭をゆっくりと持ちあげる。
    真也だった。
    「久しぶりっすね。 しっかしまあ、ざまあねえかっこうだな、おい」
    胸元に悠然と腕を組みながら真也は私を見おろし、にやにやと下卑た笑みを浮かべていた。
    最後に顔を見たのは、華原さんとふたりで千草の自宅へ出向いた夜のことだった。
    あれからすでに七年。
    当時、二十一歳だった真也の姿はそれなりに大人びたものへと変わっていた が、高飛車な態度と高圧的な口調は相変わらずで、むしろますます拍車がか かったように感じられた。
    「お前なんかに関係ない。 具合が悪いんだ。とっとと消え失せろ」
    精一杯、 語気を強めて牽制する。だが、熱のせいで声に力が入らず、私の声はもごもごと口の中で虚しく蠢いただけだった。
    「そんなかっこうで凄んでんじゃねえよ、バーカ」
    言いながら真也は、長椅子に伸ばしていた私の両脚を片手で薙ぎ払うように振り落とし、傍らにどっかと腰をおろした。
    「あの貧乏くさい拝み屋、死んだんっしょ? てめえの身に余るようなことをするからだよ。大口叩いてた割にしょっぱい散りざまでしたねえ。ははは。だっせぇ」
    「・・・・・・華原さんのことか?」
    満面をくしゃくしゃにしてせせら笑う真也に、うっすらと殺意を覚えた。 華原さんの死を侮辱されたことが私の逆鱗に触れていた。 できれば今すぐにでも起きあがって、このガキの喉笛を食いちぎってやりたかった。ただ、身体は全く力が入らない。
    「うん。あのオッサンのことっす。いちいち言わせんなよ、めんどくせえ。で、なんすか? この流れはあれかな? ようやく郷内センセーの順番が回っ てきたっていう感じっすかね? 本当にだらしねぇ先輩たちだなあ。 そんなん でよく俺に説教なんかできたもんすよ」
    「お前なんぞ、後輩にもった覚えもないがね」
    はあはあと胸で荒い息をしながら重たい頭を再び持ちあげ、真也の顔を睨めつける。 「んあ? あんたが認知していようがしてまいが、んなのぁどうだっていいんだよ。俺はね、わざわざ筋をとおして、あんたらを“先輩”って呼んでやった んだよ。このタコが」
    「......何が言いたいんだ、お前?」
    「俺もねえ、やってんすよ。拝み屋」
    こいつの顔を見た瞬間からもっとも聞きたくなかったひと言が、 真也の口から嬉しそうにこぼれ落ちた。背筋から血の気がすっと引く。
    「あんたらに邪魔されて 〝至純の光"は手に入んなかったけど、あれはあれでもういいや。あれから俺もさらに技を磨きましてね。独力でめっちゃくちゃ強くなりましたよ」 あんたらなんかよりも、はるかにずっと。
    鼻筋に小じわを寄せながら、 真也は「くっく」と声を立ててほくそ笑んだ。
    思ったとおり、 真也の頭の中は私が想像した以上でも以下でもなく、どんぴしゃりだった。技がどうだの、力が強くなっただの、相変わらずこのガキは拝み屋という生業の本質を全く理解できていない。
    「あ。信じてねえの? それとも嫉妬っすか? ははは、まあいいや。俺ね、去年の震災も予言して、ぴたりと当ててんすよ。もう客が詰めかけて押し寄せて、今超忙しいんすよ」
    軽はずみに口を開けば開くほど、ボロが出てくる。
    地震の予知など、全く拝み屋の領分ではない。おそらく客を相手にしていても一事が万事、 このような調子なのだろうと容易に察しがついた。大方、ちゃちなパフォーマンスと与太話をひけらかして、無垢な客から金を巻きあげてい るのだろうと思った。
    「まあ、この勢いでガンガンやっていきますよ、ガンガン。俺も息子を養う身なんでね。グダグダしてるヒマなんかないんすよ」
    真也の唐突な告白に虚を突かれ、思わず鼻から息が漏れる。
    「結婚したのかお前......。 だったらなおさら、バカなことはやめろ」
    「結婚? いや、してないすよ。産ませただけっす。 別にどうでもいいっしょ、そんなこと。 父親は父親っすよ。 責任は変わんないし、俺には〝育てる"権利もあるんです」
    〝育てる"の語気が、わずかに強まったのを私は聞き逃さなかった。何か、よからぬことを企んでいる。 そう思わせるだけの不穏な響きが、このガキの語気にはあった。
    母親は誰なんだ。問いかけようとしたところではっとなり、私は言葉を喉に引っこめた。
    「まあ、育てるって言っても、物理的な作業は俺の仕事じゃないんすけどね。俺は精神面というか、思想面の担当。 あとはまあ......"力"の開発っすね」
    母親が誰であるのか、目に浮かんで了解できたからだ。
    口にすることはおろか、想像することすら忌まわしく、ひたすらおぞましい。
    あの年。 あの夏。あの日。真也の手を握り締める手と、熱っぽい視線と甘ったるい声音で「わたしもあの子を全力で癒してあげたい」と囁いていた真也の母親。芹沢千恵子
    。 考えまいと努めても、ふしだらな情景が厭でも脳裏に立ちのぼり、私は吐き気を催した。
    「今はまずまず順調っすけど、でもこんなもんじゃないっすよ。これから俺は もっとずっと、あんたらが及びもしないような高みを目指します」
    お前が向かおうとしているのは高みではない。深みだ。
    「俺ら伸びしろ半端じゃないからね。王子ともども、いずれこの国を。いや、世界までをね、救うだけの存在になってみせますよ」
    とろりと潤んだ目を陶然と輝かせ、 真也はわけの分からない繰り言を吐き連ねた。
    ――世界を救う前に、まず自分を救え。
    朦朧とする意識に、高熱の影響で白熱球のように火照る頭の灼熱感。加えて真也の口から次々と発せられる浮世離れした言葉の不快感に、私はこのまま失神してしまいそうだった。
    「あれ、そういえば郷内センセーも結婚したんだっけ? どうも、おめでとうございまーす。 ねえねえ、郷内センセーもクソみたいなガキ生まれたら、うちの王子と対決させましょうよ。〝世代を超えた因縁” みたいな感じで。結婚して引越したんっしょ? 場所分かってますし、もしまた引越しても、かならず 突きとめてやりますから。 楽しみにしてな」
    逃げられないから、お前。
    清々と笑っていた真也の目だけがぎょろりと丸く見開かれ、私をひたと睨み据えた。
    ぞっとして全身の皮膚が粟立った。こいつは、私の何もかもを知っている。
    迂闊だったのである。 二年前に商用サイトをインターネットに立ちあげ、ブログに近況を掲載していた。己の軽率な行動を今さらながら心底後悔させられる羽目になる。
    「もういいから、とっとと消え失せろ」
    「なんすか、 それ? おお、怖ぇ······。 でも言っとくけどあんた今、完璧に無防備だよな? 下手に喧嘩なんか売っていいのかね」
    わざとらしく上体を仰け反らせる仕草をしてみせたあと、真也はさらにこう言った。
    「.........俺の力、知ってるでしょ? あんまりなめた口利いてると、やっちゃいますよ?」
    言葉を聞いた瞬間、喉元がぐっと鳴る。
    例の声〟を思いだしたのだ。今こいつにそんなことをされたら、鼓膜が破れるどころか、外傷性ショックで死ぬのではないかと戦慄した。
    「.......やってみろ。すぐに看護師がすっ飛んできて、次は警察だ。傷害罪でブタ箱入りだな。やれよ。やれるもんならやってみろ、このクソ頭」
    目いっぱいの虚勢を必死に織り交ぜながら、それをおこなうことへのリスクを警戒する。
    ところが真也のほうは顔色ひとつ変えるでもなく、平然とした様子で私を見据えている。
    「バカだな、あんた。俺の話、ちゃんと聞いてなかったろう?」
    私の耳元へ真也が唇を近寄せる。とっさに顔を背けようとしたが、消耗しきった身体にはもうそんな力など、 すでに一片も残されていなかった。
    「あれから技を磨いたって言ったろうが。声なんか出さなくても、お前ぐらい簡単にやれる。 要するに、そういうことっす」
    私の首筋を、氷のように冷ややかな真也の右手がぐいと押さえつける。
    「熱、死ぬまで下がんないようにしてやるよ」
    首筋に巻かれた真也の指が、気道をふさぐように深々と皮膚の中へ食いこむ のが分かった。 どくどくと脈打つ血流の不快感と一緒に、意識が少しずつ遠の いていくのが感じられる。
    視界が白々と霞みながら狭まり始め、続いて網膜の端々に焼け焦げたフィルムを思わせる黒い点がぶつぶつと浮かびあがる。ようやくの思いで頭上を仰げば、 ぎらぎらとした笑みを満面に浮かべた真也の顔があった。
    ああ、死ぬ。
    確信しかけたその時だった。
    「今度会ったら、殺すっつったろ」
    薄暗い廊下の向こうからドスの利いた男の声が、低く木霊した。
    首筋の皮膚ごしに、真也の右手がびくりと痙攣するのが伝わる。
    見れば、真也は廊下の奥を振り向き、両眉をハの字にさげて怯えた顔をしている。
    続いて首筋をつかんでいた右手がぱっと離れる。
    「まあいいや•••。 どうせ放っておいても死ぬっしょ。 じゃあ俺······もう行くわ」
    あんまり調子に乗ってんじゃねえぞ。
    わななく唇で捨て台詞を吐きだすと、真也はわだわだと縺れる足で私の前から姿を消した。
    狼狽しながら廊下の奥へ走り去っていくその背を悄然と目で追い、安堵のため息を漏らす。
    気づけばいつのまにか口の中がからからに干あがっていた。口内でごろごろと舌を転がし、唾液を湧かせて応急的に潤わせる。
    あいつ、急に血相を変えてどうしやがった。
    気息奄々のまま、どうにか上体を持ちあげ、廊下の向こうに視線を凝らす。
    T字に分かれた廊下の曲がり角に、えんじ色の着物の裾が消えていくのが一瞬見えた。
    ――ような気がした。
    それを受けて、思わず口から「へへへ」 と、かすれた笑い声が漏れる。
    見間違いだったのかもしれない。あるいは目の錯覚だったのかもしれない。
    でも、それでも私は別にどうでもよかった。
    「また面倒かけましたね......。 すみません」
    ぽつりと小さく独りごちたあと、長椅子のうしろの壁にどっと身を投げだす。
    それからしばらくの間、発熱の苦しさも忘れ、私はひとりで馬鹿みたいに笑い続けた

    平成二十四年三月二十日。
    ちょうど、春の彼岸の入りの日のことだった。

花嫁の家、あるいは生き人形の家


    介在


      嫁いだ花嫁がかならず死ぬ――
      私がその依頼を受けたのは、東日本大震災のおよそ一年前。
      平成二十二年春、東北の桜も徐々に蕾を開き始めた、四月初めのことだった。
      依頼主は二十代後半の専業主婦。名を霞さんという。
      電話口で彼女から聞かされた相談の概要と大まかな依頼内容は、以下のとおりである。

      昨年の十一月、霞さんはとある旧家の長男に嫁いだ。 地元では二十代以上も血脈を連ねる大変古い家柄だそうである。
      ところがこの家では代々、嫁いだ花嫁が祟りによってかならず死ぬという報いを受ける。
      花嫁が死に至るまでの年数や死因については、かならずしも一定ではない。
      病気や事故の場合もあるし、 突然死や自殺なども含まれる。
      しかし嫁いでからどんなに長くとも、三年以内には確実に死ぬー。
      この不文律だけは絶対なのだという。
      花嫁が命を落とすまでの年月に子を成し、からくも次の代へと血を繋げられた代もある。しかし子を授かる前に花嫁が死に至り、やむなく後妻を迎え、子を繋いだ代も多いという。
      ただしその後妻もまた例外ではない。前妻同様、三年以内には鬼籍の人と成り果てている。
      結婚前の交際時期。
      霞さんは比較的早い段階で、現夫にこの話を聞かされた。
      話が話なだけに、当人からは何度も何度も嫁入りを反対されたのだという。夫の母も、年若くして死んでいる。祖母も父を産み落としてまもなく、同じく年若くして死んでいる。その前の曾祖母もまた、同じなのだという。
      みんな死んでいる。だからお前も、どうなるか分からない。とてもとても心配でたまらない。
      このままいっそ、ずっと恋人のままでいるのはどうだろう?
      そのほうが自分も安心できる。お前には死んでほしくない。
      過度に心配する夫の心情を理解しつつ、しかしそれでも霞さんは、自ら婚約 を申しでた。
      彼の子供が欲しかったという思いもあったし、何より彼を愛していた。 恋人 などではなく、彼の妻として添い遂げたいという気持ちが、霞さんの心中で強く勝った。
      祟りなんか関係ない。そんなのは怖くない。ふたりで一緒に乗り越えよう。 だからお願い。
      わたしをお嫁にしてください――。
      霞さんの並々ならぬ決意に、彼もとうとう気持ちを固めた。
      ふたりで覚悟を決めたのち、結婚前に方々の神社仏閣を訪ね歩き、ありとあらゆる除災をおこなった。結婚後も高名な霊能者や祈禱師などを次々と自宅に招いては、延命祈願を始め、花嫁の命を守るための加持祈禱が、数え切れぬほ どに執りおこなわれた。
      けれども――。嫁いでようやく、夫の警告した意味が理解できたのだという。
      手応えを感じない。実感が沸かない。予断を許さない。
      拝まれれば拝まれるほど、祓われれば祓われるほど、日増しに恐怖と焦りばかりが募る。
      安心の代わりに不安が肥大し、身を削がれるような感覚にひたすら暗鬱とさせられる。
      自分はもう大丈夫だという確信を、どうしても得ることができないのだという。
      夫の警告は間違いではなかったと、今さらながらに実感しています。
      私の覚悟と判断が甘かったのだと、今さらながら痛感もしています。
      これから先、無事で生きていけるという確信がどうしても持てません。
      自分はやはり、このまま三年以内に死んでしまうのかもしれません。
      夫も婚家の家族も、私の安否を心配しながら日々を過ごしています。
      そろそろ身も心もほとほと疲れ果てました。 限界です。 怖いんです。
      ですからお願いします――どうかわたしを救けてください。
      電話口の向こうで霞さんは、切々とした口調で私に訴えた。
      語り口こそ明瞭だったが、か細く弱々とした声音には疲弊の色がありありとうかがえる。
      続けて霞さんは是非一度、そちらのほうへお伺いしたいと、当方への来訪を 申しでた。 稼業である。
      断る理由はなかった。
      しかし、概要を聞くだけでもおよそ一筋縄ではいきそうにない、厄介そうな案件だった。
      現にこれまで何人もの同業が今件に介在したにもかかわらず、結果はこの体 たらくである。先方の現状を鑑みるに、彼らはいずれも目に見える成果を何ひとつとしてあげられていない。こうした事実が、私をすでに及び腰にさせていた。
      半端な対応では解決どころか、かえって逆効果にさえなりうる。やるならば一挙手一投足、全てにおいて慎重にならざるを得ない、非常に繊細な案件だと 直感もしていた。
      加えて供養になるのか、祈願になるのか、祓いになるのか。
      ――あるいは、依頼そのものを辞退することになるものなのか。
      その方針を固めるうえでの判断材料も、現状ではまだまだ手持ちが少な過ぎた。
      いちばんてっとり早いのは、私自身が現地の様子をこの目で確認することだと断じる。
      件の花嫁がかならず死ぬという屋敷の実地検分をベースに、まずはこれまでの経緯を精査。そのうえで依頼の継続の可否までも含め、然るべき対応を考えるのである。
      結局、霞さんと相談の末、私自身が現地へと赴き、さらにくわしい話を伺う運びとなった。

      数日後の昼。県内某所の寂れた漁師町に、私はいた。
      霞さんが嫁いだ旧家は、家名を海上という。
      屋敷は海岸線を眼前に仰ぐこぢんまりとした集落の間に、埋もれるように佇んでいた。

      一見すると平屋建ての古びた小さな日本家屋だが、柱や玄関戸、瓦屋根の 凝った意匠など、屋敷の構えは素人目にもそれと分かるほど、旧家の名に恥じぬ立派なこしらえである。
      前庭に車を停めると、玄関口から華奢な身体つきをした若い女性が半身を覗かせた。
      年代や家族構成から察して、おそらくあの人が霞さんだろうと判じる。
      車外へ降り立つと、海風に運ばれてきた磯の香りが鼻腔を軽くくすぐった。
      「こんにちは。海上霞と申します。今日はお忙しいところ、本当にありがとうございます」
      ぱたぱたと私の元へと駆け寄りながら、霞さんが私に挨拶を述べる。
      応じるべく視線を霞さんのほうへと向けたとたん、水を浴びせられたようにぞっとした。
      微笑を浮かべる霞さんの右肩に、女の首が浮かんで私をじっと見つめていた。
      顔じゅうが黄土色に変色して皺々に干乾びた、まるでミイラのような面相の女だった。 乾いた女の首は純白の綿帽子にすっぽりと包まれ、白い生地の縁からは、ほつれた黒髪がぞろりと太い束になって溢れだし、霞さんの肩に掛かってばさばさと揺れている。
      この家と因縁浅からぬ、死んだ花嫁なのだろうか。
      そんなことを思いながら、決して目を合わせぬよう、女の顔へと恐る恐る視線を投じる。
      顔は干乾びていたが、目と歯はしっとりとした水気を帯び、ぬらぬらと濡れ光っていた。
      細かなひび割れの生じた上唇はわずかに捲れあがり、微笑を浮かべているようにも見える。ただしそれは、単に唇が微笑の相をなしているだけであり、笑っているのでは決してない。
      乾いた女の相貌には喜怒哀楽はおろか、生の温もりすらも感じとることができなかった。
      女の視線は、私をとらえて離さなかった。女はただただ無言で、私の両目を 射抜くようにじっとまっすぐに見つめている。
      「どうかされましたか?」
      怪訝な顔で小首をかしげる霞さんのひと言に、ようやくはっとなって我に返る。
      「いえ、なんでもありません」
      努めて冷静を装い、私は霞さんに軽く会釈した。
      「今日はどうぞよろしくお願いします」
      そう言って霞さんも頭をさげると、私を家内へと招き入れた。
      霞さんが玄関口へ背を向けても女の首は向きを変えることなく、霞さんの肩口から無言で私の顔を見つめたままだった。
      海上家の敷居の前に立つ。昼だというのに、家の中はとても冥々としている。
      その先へ一歩足を踏みだすという行為が、なぜだかとてつもなく躊躇われた。
      実地検分。現状を精査。然るべき対応......。
      気持ちが大きくぐらついた。まるで船酔いのような感覚を覚える。
      一度中へ入れば、もう部外者ではいられなくなる。
      警報めいた耳鳴りが脳幹を突き刺し、とたんに足元がぐらぐらとおぼつかなくなった。
      背後では海岸線の白波が飛沫をあげて砕ける波音が、どうどうと絶え間なく木霊している。
      帰りたかった。今ならきっと引き返すことができる。
      「どうぞ」
      霞さんに促され、それでも私は海上家の敷居を跨いだ。
      背後で玄関戸がぴしゃりと閉まる。
      同時に波の音も完全に掻き消えた。
      これで私は介在者。もうおそらく、此度の件から逃げだすことはできない。
      そんな予感を、ひしひしと覚えた。

    因果


      古い時代にさらわれてきた、花嫁の祟りなのです――。
      重々しい語調で私にそう告げたのは、霞さんの義父・海上忠文氏だった。
      十二畳敷きの広々とした海上家の茶の間に、同家三代の家督が肩を並べて会している。
      義父の忠文氏。 その息子で、霞さんの夫でもある雅文さん。そして祖父の克己さん。
      嫁の霞さんを含めると、現在の海上家は四人家族という構成になる。
      ただし一家の女手は、霞さんただひとり。義母も祖母も曾祖母も、先代までの連れ合いはもうすでに誰ひとりとして、この家にはいない。
      原因は言わずもがな、今しがた忠文氏が語った花嫁の祟りによるものである。
      茶の間は薄暗い。南側に面した大きな掃き出し窓があるというのに、それでもなお薄暗い。
      前庭に陽の光を遮るものは何もない。背の低い黒松が数本と、小さな池があるだけである。
      陽が入らぬから冥いのでない。家自体が内から陰気を放っているから、冥いのだ。
      「くわしくお話をお聞かせいただけますでしょうか?」
      私が先を促すと、忠文氏は傍らに置いていた過去帳を私の前へと差しだした。
      経年劣化で黒い表紙もすっかり色褪せ、角もぼろぼろに擦り切れた古びた過去帳である。
      「ご覧ください」
      忠文氏に勧められるまま過去帳を紐解き、中身を検める。
      正直なところ、当初は単なる思いこみだろうと勘繰っていた節も、ないわけではなかった。
      同じ家系の人間が続けて何人も亡くなるという事例は、実はそれほど珍しいことではない。癌などの難病による病死、あるいは事故や自殺など。 全く同じ 死因で一代のうちに何人もの身内が亡くなる事例など、世間を少し見渡せばいくらでも出てくるのである。
      またそれが、一族の何代にもわたって断続的に続くケースもある。
      加えて、死因は様々であっても、短い歳月の間に身内が続けて亡くなるという話もザラだ。
      その原因を単なる偶然に求めるか、それとも目には見えない何かに求めるか。事実自体は同じであっても解釈ひとつで印象も対応も、問題そのものも全く異質なものとなる。 祟りとは、思いこみから生じるケースがほぼその大半に当たる。
      というのが私の持論だった。
      たまたま何代か前まで新妻が立て続けに亡くなっていること。過去にも同じような年頃で死んでいる花嫁が何名か、過去帳の中にも散見されること。
      それらを〝祟り"という言葉で結んだ結果、過度に花嫁の死を恐れるという現在の流れができあがっただけではないのか? そんな推察も、なかったわけではない。
      霞さんの肩口に浮かぶ花嫁の首と、この過去帳を見るまでは。
      先日、 霞さんから電話口で説明されたとおりだった。
      紛うことなく過去十数代にもわたって、海上家に嫁いだ花嫁はことごとく死に絶えていた。
      昭和五十六年七月某日。享年二十二。 交通事故にて死亡。
      先代・忠文氏の妻であり雅文さんの母霞さんの義母に当たる女性を最新の記録として、過去帳は歴代の花嫁たちの死を連綿と書き連ねていた。
      昭和三十二年某月某日。享年二十。 克己の後妻。 水死。
      昭和三十年某月某日。享年二十一。 克己の妻。 自殺。
      昭和六年某月某日。享年二十四。 公篤の妻。 病死。
      明治四十年某月某日。享年二十一。 某の妻。 病死。
      明治十一年某月某日。享年十九。 某の妻。病死。
      文久、天保、文政、享和、天哪、哪和、安永、宝暦・・・・・・。
      赤茶けた紙面に薄ぼけた筆字で書き記された、うら若き花嫁たちの累々たる死の系譜。
      紙面には過去十五代、実に二十二名にも及ぶ花嫁たちの命日と享年が、おおまかな死因とともに記載されていた。
      過去帳に記載されたもっとも古い記録は、享保時代に十七歳で逝った花嫁のものだった。
      「享保に亡くなったこの古い方は、祟りの元凶ではないようです」
      突然雅文さんに声をかけられ、思わずびくりと肩が持ちあがった。
      いつのまにか過去帳に目を奪われ、周囲の音が全く聞こえていなかったことに気づく。
      「伝聞や郷土史などから知りうる限り、海上家は享保の時代よりも以前から続いております。 昔は土地の豪商だったらしく、土地屋敷もこの家を起点にもっと大きかったようです」
      雅文さんの弁舌を、今度は忠文氏が継ぐ。
      「菩提寺が火事で焼け、保管されていた以前の過去帳はその際に消失したと聞いております。 今ここにある過去帳は明治の頃、残された記録を元に再度書き 直されたものだそうです」
      忠文氏は続ける。
      「代々我が家に伝わる話によりますと大昔、商家として羽振りを利かせていた 頃だそうです。 当家の初代か、もしくはその何代か先の者なのか......。 とにかく海上家の古い家督がある時、沖合いに浮かぶ小さな島から、若い娘を嫁に迎 え入れました」
      "小さな島"とは、私もよく知る県内の沖合いに浮かぶ孤島だったが、島名はあえて伏せる。
      若い娘とは、厳密には〝花嫁〟であったという。 要するにこうなのだ。
      小さな島の漁師の家に嫁いだばかりの花嫁を、当時の海上家当主が見初め、嫁に奪った。
      ―おそらくは金と権力に飽かせた、甚だ強引な手段を用いて。
      だからこそ忠文氏は先刻、私にこう告げたのである。〝さらわれてきた"花嫁の祟りだと。
      「島から連れて来られた娘は百と八晩泣き崩れ、終いにはとうとう神経をやら れたそうです。ある晩、屋敷を抜けだし海に飛びこんだままそれっきり。遺体 はあがらず、生き延びたのか死んだのか、それすらも分からなかったようです が、故郷の島の嫁ぎ先に戻った様子もなく、結局は死んだということになったようです」
      それから数年後、当時の海上家当主は新たな娘を後妻として迎え入れた。
      それからなのだという。
      「後妻も同じく神経をやられ、早々と亡くなり、その後に迎えた花嫁も同じ だったそうです。 この頃から海へと身を投げた花嫁の祟りではないかという話 が、一族から噴出したようです。 その後、果たして不幸中の幸いと言ってよい ものか......三番目に迎えた嫁との間に海上家はようやくひとり、子を授かりま した。このようにして、辛くも海上家の血は継がれたのです。しかし、祟りは それで終わりませんでした」
      先日、霞さんが電話口で述べた祟りの話へと、その因果は連なっていく。
      次の代も、その次の代も、そのまた次の代も――。
      それは延々と不文律のように繰り返される。
      「これまでの代、この家を継ぐため、一体何人の女が死んでいったのか、想像もつきません。 私の連れ合いも、嫁いで二年で世を去りました」
      そう言って忠文氏は深々とため息をつき、小さく肩を竦めた。
      「俺も最初の女房と後妻のふたりを亡くしております。 本当になんという因果 だろう」
      今まで押し黙っていた克己氏も、沈痛な面持ちでぽつりとつぶやく。
      「それでも嫁をもらい、家名を存続していくこの家は、罪深い家なのでしょうか?」
      忠文氏の問いに私は返答に窮した。二の句を継げずにいると、雅文さんが再び口を開いた。
      「私はそうは思いません。確かに当家の先祖はかつて、人としてあるまじきことをしました。 それについては否定はしません。 でも、これが今の世に至っても、当時の所業を記録でしか知らないような代に至っても、この祟りは甘んじ て受けるべきことなのでしょうか?」
      罰というなら、もう十分過ぎるほどの罰を、我が家は受け続けてきたはずです。
      雅文さんの言葉に、忠文氏と克己氏も無言で深くうなずいた。
      「もういいでしょう。お袋も祖母ちゃんも曾祖母ちゃんも、みんな犠牲になっ てきたんです。もうたくさんです。 これ以上は――霞だけは絶対に死なせたくありません」
      半ば興奮気味に言いきると、雅文さんは眉根を寄せ、隣に座る霞さんへ視線を向けた。
      それにつられて私も、霞さんの顔へ視線を移す。
      長らく続く不安と焦燥の毎日に幾分陰りは見られるものの、それでも大層綺麗な人だった。
      乳白色の透き通るように輝く細面。 肌質はきめ細かく滑らかで、その面貌には染みや黒子、吹き出物の一点すら見受けられない。
      胸元まで伸びた黒髪は肩口でゆったりと束ねられ、その髪色の落ち着いた黒みがより一層、肌色の儚い白さを引き立てているように感じられた。
      それに目がとても印象的な人だった。虹彩が青みがかった紺色をしていて、光線の加減で時折、深みをたたえた藍色のようにも見える。
      初見の際は、カラーコンタクトでも着用しているのかと思ったのだが、確信はなかった。虹彩の模様や質感がとても瑞々しく、人工的な印象を感じとることができなかったのだ。
      あるいはどこか、異国の血でも引いているのだろうか?
      なんとなくそのようにも考えたのだが、それらしき特徴は瞳以外に何ひとつ 見当たらない。面立ちはあくまでも日本人の、それも飛び抜けて美しい日本女性のそれであり、瞳ばかりがただただ仄かに蒼く、深海に沈んだ宝石のように時折、目の中で小さく輝くのだった。
      然様に美しく魅力的な女性だったが、私は霞さんの顔を直視し続けることができなかった。
      綿帽子を被った生首は、なおも執拗に霞さんの肩口へ居座り続けていたからである。
      反吐を拭ってくしゃくしゃに丸めたかのような、白と茶色の干乾びたおぞましき物体。
      ――あるいは祟りの元凶。
      首はまるで私の一挙手一投足を監視するかのように、ぷかぷかと上下にたゆたっている。
      ふとした弾みに再び首と目が合ってしまい、私は慌てて雅文さんの顔へと視線を戻した。
      「これまでに何か、この家でおかしなものを視たり感じたりしたことはありませんか?」
      一応、本職とはいえ、部外者の私にもこんなものが易々と視えているのだ。 当事者である彼らも何かを視たり体験したりしている可能性は、十分過ぎるほ どあると考えられた。
      さらに言うならば、そうした異様な事象を感知しているからこそ先日、霞さんは電話口であれほどまでに憔悴しきった声音を出していたのではないか?
      そのように考えての質問だった。
      「お化けを見たり、妙な気配を感じるとか、そういうことは今も昔も全くないです」
      海上家の面々がひとしきり顔を見合わせたあと、忠文氏が代表して答えた。
      「ただね、妙なことがひとつだけ、あるにはあるんです」
      「どんなことでしょうか?」
      「私の嫁の時も、親父の代の時も、こんなことはなかったと記憶してるんですけどね。嫁が時々、妙な夢を見るって言うんですよ」
      言いながら忠文氏が、霞さんのほうへ視線を向けた。
      「どんな夢でしょう? よろしかったら、くわしく聞かせていただけませんか?」
      生首となるべく視線を合わさないよう気をつけながら、霞さんの顔を覗きこむ。
      後、どのような対応をすることになるにせよ、とにかく今は少しでも情報が欲しかった。
      「白無垢を着た、花嫁の夢なんです―――」
      霞さんは訥々とした口調で、奇妙な夢の話を語り始めた。

    禍夢


      結婚後、まもなくからだそうである。
      およそ月に二度から三度の割合で、霞さんは奇妙な夢を繰り返し見続けていた。
      夢の中で霞さんは、どこかの砂浜に独りで佇んでいる。
      夢なので、場所はとして知れない。
      もしかしたら自宅の眼前に広がる砂浜かもしれないし、昔の記憶に残る砂浜かもしれない。あるいはそもそも夢なのだから、端からこの世に存在などしない、自己の空想が生みだした架空の砂浜なのかもしれない。
      空は陰気な鈍色をじくじくと滲ませた分厚い雨雲に覆われ、一面どんよりと曇っている。
      眼前では砂浜に打ちつけられた白波が、どうどうと激しい潮騒を轟かせている。
      海もまた冥い。 淀んだ空の色を吸ってひた黒く濁り、混沌とした荒波を逆巻かせている。
      砂浜には身を切り裂くような冷たい颶風が絶え間なく吹き荒び、足元の砂塵をぱらぱらと掬うようにさらっては、至るところにつむじを描いて舞わせている。
      周囲に人影は全く見当たらない。霞さんは陰気な浜辺に孤立無援で立ち尽くしている。
      とても寒くて寂しかった。 所在もなく、冷たい砂の上に座りこんで、じっと寒さに耐える。
      するとそのうち、荒れ狂う波間のはるか彼方に、何かがちらちらと見え隠れし始める。 目を凝らしてよく見ると、それは白無垢姿の花嫁だった。
      花嫁は宙に浮き、うねる波の上を滑るようにして、霞さんの元へまっすぐに接近して来る。
      白粉を塗った純白の細面にはたおやかな笑み。両の腕には黄金色に輝く稲穂を抱えている。
      やがて霞さんの眼前まで音もなくたどり着いた花嫁は、霞さんに向かって微笑を浮かべた。
      なんだか安心した霞さんも、思わずゆったりとした心地で花嫁に笑いかける。
      花嫁は微笑を浮かべたまま、腕に抱えた稲穂の束を、霞さんの眼前へそっと差しだした。
      困惑しながらも霞さんは稲穂を受け取る。
      とたんに一転、周囲が明るくなった。
      鈍色の雲が掻き消え、穏やかな陽光の降りそそぐ紺碧の青天が、頭上に開いたのだった。
      天から射しこむ陽光が眩しく、霞さんは堪らず目を細める。
      同時に空一面から神楽のような、雅楽のような、古式ゆかしい音色が盛大に鳴り響く。
      篳篥、竜笛、笙。三管と呼ばれる管楽器の雅な調べに乗って琵琶の旋律や鈴、太鼓の音が、まるでこの青天の霹靂を寿ぐかのように、賑々しく空から響き始めた。
      音は耳に優しく、聴いていると胸のつかえも寂しさも、厭なことの何もかもを忘れさせた。
      陽射しも潮風も暖かく、凍えた身体に陽が染みこむと、寒さも不安もたちまち消え失せた。
      歓喜の吐息を漏らす霞さんを一瞥すると、花嫁は目を細め、再び満足そうに微笑んだ。 と、突然。
      はるか沖合いのほうで、どん!と何かが弾ける凄まじい爆音が木霊した。
      驚いて沖のほうを見やると、波間の彼方から何かとてつもなく大きな物体が白飛沫をあげ、こちらへ向かって押し寄せてくるのが目に映る。
      視界に収まりきらないほど、それはあまりにも巨大な存在だった。
      黒い壁のようなもの。海を埋め尽くすほど大きな鯨のような生物。海坊主のような妖かし。印象ばかりが頭の中でぐるぐると渦を巻き、まるで正体が測れない。
      神楽のような雅楽のような調べは、なおも盛大に空の上から流れ続けている。
      慄くうちに波打ち際のあちこちから一斉に、ばしゃばしゃと小さな水飛沫があがり始めた。
      見ると、数え切れないほどの魚が狂ったように水面を飛び跳ねていた。
      怖いのだ。 あれが。逃げようとしているのだ。 あれから。
      わたしも逃げなくては。
      はっとなって踵を返そうとした瞬間、手首をぐっと掴まれた。
      振り向くと花嫁が霞さんの手首を固く握り、笑みを浮かべて頭を振っていた。
      放してください!
      叫んだつもりが、声は少しも出なかった。
      花嫁の顔からすっと笑みが引く。眼差しが氷のように冷たくなった。
      とたんに恐ろしくなる。
      轟々と地響きのような大音響が、もうすぐそばまで近づいてきている。
      顔をあげて再び海を見やると、目の前にもはや海はなく、黒い壁のようなも のが霞さんの視界いっぱいを埋め尽くしていた。
      あはははは。
      花嫁の笑い声が、耳元で囁くように木霊した。

      そこで毎回はっとなって目が覚めるのだという。
      「夢は夢ですから、それ以外に特別何か、変わったことが起きるわけではないんです」
      けれども――と再び霞さんは続ける。
      「その夢がすごく生々しくてわたし、怖いんです。嫁いだばかりは祟りなんか 迷信だろうと勘繰っていた部分も正直なところ、心のどこかにはありました」
      ......でも、それはやっぱり間違いだったんです。
      「日に日に怖くなるんです、 不安になるんです。 自分は本当に死ぬんだ、死ぬしかないんだ。そう思えて仕方ないんです。 あの夢を見るたび、タイムリミットが迫ってきているみたいで、なんだかその都度、自分の寿命が削られていくような、物凄い恐怖を感じるんです」
      ただの夢なのに・・・・・ ただの夢なのに......。 分かっているのに・・・・・・。
      言い終えた霞さんの頬に涙が一筋伝った。滲んだ瞳が、ほんのりと藍色に輝く。
      「霞はもう限界です。 なんとかお力添え、よろしくお願いします」
      霞さんの背中を優しくさすりながら、雅文さんが頭を下げる。
      テーブルの上に深々と頭を突っ伏し、忠文氏と克己氏も懇願する。
      内心、怖気づいてはいた。
      私などにどうにかできるような案件なのか、まるで自信が湧いてこなかった。
      ただ、何をどうするにせよ、まずは供養と邸内の実地検分からだとも思った。
      どの道いっぺんに片づくような簡単な用件ではない。 対症療法ではないが、できることは全て実践し、結果が出るまで試してみようと思った。
      霞さんを含め、最低でも海上家一同の不安を完全に払拭するところまでは 持っていこう。
      それが拝み屋としてこの家に招かれた、自分の役割である。
      声も立てず、静かに涙を流す霞さんのほうへと再び視線を向ける。
      肩口では干乾びた花嫁が、私の目を無言でまっすぐに射抜いていた。
      「――仏間をお借りしてよろしいでしょうか」
      花嫁を横目でそっと睨めつけながら、私は立ちあがった。

    秘密


      暗いので足元には気をつけてください――。
      忠文氏の先導で茶の間から廊下へと出た。私のあとに雅文さんと霞さん、克 己氏も続く。
      やはり昼だというのに、家内は異様に暗い。
      玄関戸、縁側の掃き出し窓、台所。家のあちこちから陽の光は射しこんでくるというのに、まるで明るさを感じない。光を光と感じ取れないほど、家の中は不気味に薄暗いのである。
      その異様な暗さは、過去の忌まわしい記憶を私に呼び起こさせもした。
      詳細は端折るが、これと同じような状態がその昔、私の実家にもあったのだ。
      我が家もかつては天候昼夜の一切を問わず、家全体がひたすら陰に籠っていた時期がある。この海上家と同じく、どれほど陽の光が射しこんでも家内はいつでも薄暗く、陰気だった。
      幸い、今現在は本来あるべき明るさをとり戻し、平穏無事な暮らしを続けてはいる。が、それでも昔はいろいろとあったのである。その頃の状態に、海上家の陰気はよく似ていた。
      この家も事が無事に収まれば、明るさをとり戻すのだろうか。
      そんなことを思いながら、 忠文氏に導かれるまま冥い廊下を黙々と進んだ。
      外観はこぢんまりとして見えたが、実際は広い家だというのが歩いてみて初めて分かった。玄関前から屋敷を真正面に見た時の印象で、勘違いをしていたのである。
      屋敷は正面から横に広がる造りではなく、奥へと向けてひたすら伸びる造りだった。
      廊下が異様に長く、家内の暗さと相俟って、ほとんど果てが見えないほどである。
      初めは今風の変わった造りなのかと思ったが、それにしては内装が半端な古さではない。おそらく築百年余り。少なく見積もっても向こう五十年はくだらないような趣きがある。
      ――昔は土地の豪商だったらしく、土地屋敷もこの家を起点にもっと大きかったようです。
      先刻、茶の間で雅文さんが語った言葉を思いだし、ちょっとした推測が思い浮かんだ。 海上家の両隣には、ごちゃごちゃとした造りの民家がずらりとひしめき建ち並んでいる。 雅文さんの言のとおりであればこれらは当然、昔は海上家の土地だったということになる。
      おそらくこうではないかと思う。
      土地を失っても屋敷は失わないという措置を、海上家は施したのだ。
      長い年月の間、土地の切り売りを重ねていく過程で、敷地は両脇から徐々に 狭まっていく。 だが屋敷自体は取り壊さず、その都度、家屋の両脇を少しずつ 削り取る形で減築をおこない、古い屋敷の原形を存続させてきたのではないだ ろうか。
      たとえは悪いが、両端から切り分けられて最後に残ったカステラのようなものである。
      だからこんなにまでもこの屋敷は縦に細く、奥へと異様に長い造りになったのではないか。
      なんだか荒唐無稽な話に思えなくもなかったが、そうした痕跡は家じゅうの至るところに散見できた。
      屋敷の内側に面した壁と、外側に面した壁。見比べてみると、その経年差が歴然と分かる。 内側の壁が古びて煤けているのに対し、外側の壁はまだまだだ いぶ新しく見えた。
      同じく柱や天井、床板も内側が古く、外側のみが全て新しいものにすげ替えられていた。
      減築を施した形跡がありありとうかがえる。
      確たる証拠はないが、それほど突飛な推測でもないと私は思った。
      家の奥へと進むにつれ、光はますます希薄なものになっていく。
      廊下の角を一本曲がり、家の内側へと潜りこむと、冥さは否応なしに増した。
      目の前に忠文氏の背中がなければ何も見えないほど、周囲の全てがどす黒く感じられる。その冥さは先へ進めば進むほど、奈落の底を彷徨うような錯覚を 私の網膜に引き起こさせた。
      家の内奥には陽の光が射しこんでこない。だから、冥いのは当然といえば当 然ともいえる。
      だが、原因は決してそれだけではないのだと、自分の肌が報せてもいた。
      闇が身体に粘りつく。 煤のようにこびりつく。 墨のように染みこんでいく。
      斯様に不穏で得も知れぬ感覚を、ひしひしと肌身に感じるのである。
      陰気な闇に身を浸し続けていると、心の中まで黒々と染められていくような、そんな感覚さえも覚えさせられた。
      とても人の住めた家ではない。歯に衣を着せずに語れば、それが私の率直な感想だった。
      結局、何分歩いたのか分からない。あるいはたかだか数十秒の距離だったの かもしれない。
      しかし仏間に至るまでの道のりが、私にはとてつもなく長い距離に感じられた。
      仏間は長い廊下を二度ほど曲がった、屋敷の多分、どん詰まりにあった。
      入口は古びた大きな板戸である。なんだかひどく陰鬱でとても厭な感じのする扉だった。「どうぞ」と言って忠文氏が扉を開け、電気をつける。
      やはり冥い。
      八畳敷きの仏間には窓がなく、四方を砂壁で塞がれている。冥いのは当然である。 しかし、その冥さが尋常ではない。
      天井を見あげれば丸型の蛍光灯が二本、煌々とした明かりを畳の上に投げ落としている。
      本来ならば、全く不足のない明るさなのである。
      けれどもこの部屋の冥さは、そんなもので払拭できるほど生易しいものではなかった。 まるでサングラス越しに部屋を見ているようだった。
      闇が梃子でも動かない、とでもいえばよいものか。もしくはどれほど強い光を浴びせても決して消えない闇が靄のように残留する、とでも言えばよいのだろうか。
      茶の間や廊下も異口同音の趣きだったが、取り分けこの仏間の闇の濃さは一入だった。
      仏間の隅に重ねてあった座布団を、霞さんが仏壇の前へと一列に並べ始めた。
      それを横目に、私は経机の前へと腰をおろす。
      さすがに旧家らしく、仏壇のこしらえは甚だ大きく豪奢なものだった。
      目測で幅が一間ほどもある。一般家庭における仏壇の、およそ三倍の規格である。
      材質は島桑だろうか。確証はないがおそらく総無垢だと思う。 長年線香の煙に燻され続け、壇の全体がほとんど黒褐色に煤けているものの、古さというよりは箔である。 その色合いがかえって、壇全体に荘厳な風格を付加しているよ うに思われた。
      左右に開かれた大戸や上部の欄間、化粧柱など、装飾部の細工にも目を瞠るものがあった。 くわしい知識は持ち合わせていないが、彫りが細かく絢爛で、素人目にも見事な作りである。内部には黒壇、紫壇、欅の漆塗りなど、様々な材質の位牌がずらりと実に五十柱余りも並び、まるで仏壇自体が小さな墓場のようだった。
      当初、この仏壇こそがこの屋敷の隅々にインキを放つ出どころではないかと私は勘操った。
      当家で亡くなった花嫁たちの怨嗟というわけではないが、長年積み重なった無念の想いが薄黒い陰気となって、我が目に見えているのではないか。そんな ふうに考えていた。 しかし、どうにも見当が外れたようだった。
      こうして仏前に座り、意識を集中してみても、厭な気は何ひとつとして感じられない。 仏壇も位牌も時の流れが生みだした厳かな風格を湛え、静かに屹立しているだけである。
      ではこの異様な陰気は、果たしてどこから噴きだしてくるものなのか。
      まるで見当もつかなかった。
      仏前で考えこんでいるうち、気づけば私の背後に海上家の面々が並んで腰をおろしていた。誰もがうっすらと不安げな色を顔に浮かべ、私の反応を待っているようだった。
      仏壇から振り返り、 一同と真正面に向き合う。
      「聞きそびれていましたが、これまでどれぐらいの方にご祈禱をご依頼されていますか?」
      別段、数を聞いてどうこうではなかった。これまでの間、他の同業が今件の依頼においてどのような対応をとってきたのか、参考として聞いておきたかったのである。
      「僕と霞が結婚してからは確か八人だったと思います」
      雅文さんが答えた。
      「私の時は十人前後だったと思います」
      続けて忠氏。
      「俺は前妻を亡くして後妻を迎えてますから、両方で二十人以上はお願いしたと思います」
      最後に克己氏が答えた。
      「みなさんは主に、 どのような対応をされていかれたのでしょう?」
      「僕と霞の時は、先祖供養にお祓い、それから延命や安全の祈願なんかがほとんどでしたね。ああ、身代わり札や御守りなんかも大分いただきました」
      雅文さんが答える。 忠文氏と克己氏の回答もほぼ同じだった。
      「なるほど。それは大変な人数でしたね。ただ、それでも霞さんを始め、ご家族の皆さんはなんだか今ひとつ釈然としないというか、全てが丸く収まったという実感が湧かないと?」
      ええそうです、と今度は一同口を揃えて応える。
      「それではこれまでご依頼された方々から核心に触れるような話要するに何々が原因で、これをこうすればよくなる、というお話などはありませんでしたか?」
      「ありました。どの先生からも様々な結論やご提案をいただきました。ですが正直なところ、どれを信じたらいいのか...••••僕らには判断のしようがありませんでした」
      雅文さん曰く。
      ――誰それという個人が問題なのではない。歴代の死んだ花嫁全てが祟っている。
      ――怨みつらみが巨大な塊のようになって、花嫁だけでなくこの家そのもの に障っている。
      ――花嫁の怨念に引き寄せられるようにして、様々な悪霊が集まってきている。
      花嫁が祟っているのではない。 娘をさらってきた家督が怨霊と化して障ってるのだ。
      ・・・などなど。 まさしく言のとおり、その見解は十人十色だった。
      ただし、祟りの原因について言及した彼らはその後、いずれも共通した結論をだしている。
      ――大変申しわけありませんが、私の手には負えません。
      それが今件に携わった同業者たちの最終的な結論だった。 雅文さんの隣に座る霞さんへ、ちらりと視線を向ける。
      首はまだ、視えている。
      仏間に入ればもしや、とも思ったが、消える気配は全くない。
      こんなものがひたすら視え続け、おまけにこの陰気である。およそ無理からぬ話である。
      己が危機を察した先人たちは早々退散したというわけだ。気持ちは痛いほど によく分かる。できることなら私だって、今すぐにでも帰りたいのだから。
      ただ、そうも思ってもいられないので、早々仕事を始めることにした。
      「差しあたって、供養の経をあげさせていただきます。 これで全てが解決するという保証はありませんが、まずは海上家のご先祖方へ供養の気持ちを手向けたいと思います」
      異論はなかったので、さっそく拝み始めることにした。
      経文自体は特別な内容のものではない。一般的な供養に用いるごくありふれた経文である。海上家一同へ向けた説明どおり、これで解決できるなどとは無論、夢にも思っていない。
      ただ、仏壇を前に拝ませてもらうことで、少し気持ちを落ち着けたいという 思いはあった。
      経典を手に、しばし粛々と奏唱する。
      陰に籠り、しんと静まり返った仏間の空気を、私の声が淡々としたリズムで震わせた。
      やがて半分ほど、経を読み進めた頃だろうか。
      ふと気づくと、眼前に立ち並ぶ位牌の合間から、ちらちらと何かが覗いているのが視えた。
      目を向けるとそれは、小さな小さな、女の顔だった。
      墓場のごとくずらりとひしめく位牌の陰から、うら若い年頃の女たちが指先ほどの小首をそっと差しだし、物憂げな面差しで私の顔を見おろしていた。
      丸髷。 勝山髷。 おばこ結び。 兵庫髷。 束髪。 西洋揚げ巻。 銀杏返し。 庇髪。
      髪型はばらばらだが、皆一様に若い。 この家で命を落とした歴代の花嫁たちなのだろうか。
      いずれの顔にも怨みや憎しみの相は微塵も浮かんでいない。ただ、強い憐憫を感じた。
      生きたかっただろうに。 幸せになりたかっただろうに。添い遂げたかっただろうに。
      なんと惨い始末だろう。
      そう思うと柄にもなく、なんだかほろほろと無性に涙がこぼれてきた。
      読経が終わり、悉皆涙を拭って再び背後を振り返る。
      霞さんに目を向けると、首はまだそこにいた。
      やはり駄目か。再び陰鬱な気持ちになり、さてどうしたものかと沈思する。
      お水でもお持ちしましょうか、と霞さんが膝をあげかけたので、丁重に断った。
      どうにも手詰まりだった。
      次に試すならお祓いということになるだろうが、今の段階ではおそらくなん の効果もない。ひと口に〝お祓い"といっても、現実は映画や漫画のように単純明快なものではないのだ。
      他の同業はどうなのか知らないが、私の場合は祓うべき対象の来歴や人に障る原因などがある程度はっきりした状態でないと、綺麗に祓い落とすことができない。
      霞さんの肩に居座る首は、外面だけを見る限り海上家に関係する花嫁だとの推察ができる。しかし、これはあくまでも印象から判じただけの想像であり、 正解かどうかは不明である。
      理由は言わずもがな。 その裏づけとなる証拠が、今のところ何ひとつないか らである。
      仮にこの生首が海上家の花嫁だとして、今度はそれが何代目の誰であるのか が分からない。あるいは海上家とは縁もゆかりも一切ない、干乾びた生首が霞さんにとり憑いているという可能性だって、ないことはないのだ。
      無論、その首はなんですか? と海上家の面々に直接尋ねることだってでき なくはない。
      ただ、他人の目に見えないものを不用意に開示するほど、実は危ういことは ないのだ。 それは時として“脅し”という名の凶器にさえなり得る。
      他人には視えず、自分にしか視えないもののことを、一般には妄想、ないし は幻覚という。
      これは拝み屋という肩書きを名乗っているからこそ、常々念頭に据え置くべ き常識である。 本職の人間が客に対して発する 「何々が見えますよ」という発 言は、本人が考えているよりはるかに影響力が大きい。それは時と場合を間違 えれば、こうした方面に無防備な一般人に凄まじい恐怖や暗示を植えつけるこ とさえあるのだ。
      軽はずみな言動は厳に慎む。 生業として営む以上、これは努々忘れてはならないのである。
      "祓う"とは依頼人の不利益をもたらす対象を消滅させるのと同時に、依頼人 の不安までを解消することで真に完遂される。それが私のスタンスだった。
      まだまだ実地検分は始まったばかりだったし、急いては事を仕損じる。中途半端な段階で、悪戯に海上家の動揺を煽りたくはなかった。
      首のことを訊くのはもう少し控えておいたほうがよいと思い做す。
      ただそうなるとやはり、どうしても手詰まりは手詰まりなのである。
      「ひとまず茶の間のほうへ戻りましょうか」
      妙案も浮かばないため、一旦仕切り直そうかと考えた。
      許しをもらえれば、屋敷内の各部屋を順に拝見させてもらうという手もある。
      海上家の面々は心なしかほっとしたような表情を顔に浮かべ、そうですね、とうなずいた。
      のろりと立ちあがり、最後にもう一度、仏壇の正面へと向き直る。
      とたんに違和感を覚えた。仏間の何かが、変わった気がした。
      否。何か見えないものが表出した。あるいは浮き立ったという感覚にそれは近かった。
      先ほどまでは決して感じることのなかった、強烈な胸騒ぎを伴うとてつもな く不穏な感覚。
      それが今は強く感じられる。
      思わずその場に足が止まり、動けなくなった。
      「どうかしましたか?」
      肩越しに誰かが声をかけてきたが、ほとんど耳に入らなかった。
      仏壇に異常はない。 相変わらず厭な印象は微塵も感じられない。先ほどと全く同じである。
      しかし間違いなく、仏間の中の何かが変わった。
      先ほどまでなかったものが、確実に増えている。理屈はごまかせても、目はごまかせない。
      先ほどの仏間と今の仏間は違うと、私の目がそう判じている。
      仏壇から視線をゆっくり、右へ右へと滑らせていく。あった。
      「あれはなんですか?」
      仏壇右隣の壁。その下側に大人が屈んでくぐれるほどの小さな板戸が設えられていた。
      断言してもいい。先ほどまで、あんなものは絶対になかった。
      仏壇と同じく、煙に煤けた黒い扉である。扉の縁に赤黒く錆びた取っ手がつ いているので、引き戸ではなく開き戸であるとうかがえる。
      地袋にしては造りも形も妙だったし、納戸にしては扉があまりにも小さ過ぎる。
      だがいずれにせよ、そんなつまらない目的で存在する扉では、決してない。
      扉の隙間から冷気と瘴気が染みだしてくるような、 とてつもなく厭な感じのする扉だった。
      「なんでもありません。ただの物入れですよ」
      笑みを浮かべて忠文氏が即答した。作り笑いだった。
      「そうですか?」
      眉をひそめて訊き返すと、忠文氏はそうですそうですと、うなずいた。
      雅文さんと克己氏に目を向ける。
      顔を伏せ、腹元で指を組み、なんだかそわそわしている様子が、ありありと見て取れる。
      霞さんへ視線を移す。
      下唇をわずかに噛み、どことなく困惑したような色を浮かべている。
      霞さんから再び、 忠文氏へと向き直る。
      とたんにはっと気づいて、慌てて霞さんのほうへと視線を戻した。
      首が、消えていた。
      いつのまに消えたのか。霞さんの肩口からあの干乾びた首が、跡形もなく消え失せていた。
      「どうかしましたか?」
      きょとんとした目で小首をかしげる霞さんに構わず、 忠文氏の正面へすかさず身を向けた。
      確信めいたものが浮き立ったのである。
      「忠文さん。大変失礼なことをお伺いしますが、よろしいでしょうか?」
      淀みのない声音でゆっくりと、噛んで含めるように忠文氏へ問う。
      あまり褒められた行いではないが、かまをかけてやるつもりだった。
      「はあ、なんでしょうか?」
      忠文氏の目が露骨なまでに泳ぐ。
      「私に何か嘘をついているか、あるいは隠していることはありませんか?」
      とたんに忠文さんの瞳孔が、きゅっと萎んだように見えた。どうやら図星のようだった。
      「いや、特に何も。私が何か、お気に障るようなことでもしましたでしょうか?」
      物腰は柔らかいが、先ほどまでとは目つきが全く違っていた。いかにも臨戦態勢といった鋭い眼差しを、まっすぐ私に向けている。
      「別にそんなことはありませんよ。ただ、知っていることは全てお話しいただ きたいんです。 仕事の性質上、お客様からはできうる限りの情報をご提供いただけたほうが、私は捗ります。自然とご協力させていただける用件も増える。 ただそれだけのことです」
      「はあ......そうですか。 でも本当に我々が知っていることは全部隠さず、 話していますがね。何か我々を疑っているとか......そういうお話ですか?」
      忠文氏の目がますます鋭さを増す。抑揚のない声色は挑発的ですらあった。「いえ、そういうことではありません。でしたら何か思いだすことはありませんか?」
      「だからよお、一体なんなんだッ!」
      突然、 忠文氏の傍らにいた克己氏が怒号を発したので、思わずびくりとなった。
      「大きな声をださないでいただけますか?」
      内心どぎまぎしていたが、努めて冷静を装い、 克己氏に釘を刺す。
      これで確定だと思った。彼らは確実に何かを隠している。 あの扉の向こうに。
      「あんたが急に失礼なこと言うからだよ。 我々が一体、何を隠しているって言うんだね?」
      皺だらけの顔に苦々とした表情を浮かべ、克己氏がぶつぶつと弁明する。
      「あの扉、中を拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」
      私が木戸を指差した瞬間、一同はっとした顔になった。
      「...... どうしてあれが、気になるんですか?」
      私の目を覗きこむようにして忠文氏が問うた。 その目からは先ほどまでの鋭さが消え失せ、今度は一転、万引きを咎められた子供のようなおどおどしたものに変じている。
      出すなら今だと思った。おそらく絶大な効果を発揮するだろう。
      「黙っていましたが、こちらへお邪魔した時からずっと、ミイラが視えるんでよす」
      忠文氏の顔からすっと血の気が引いた。
      「ミイラ、ですか?」
      「はい。白い綿帽子を被った干乾びた女の生首なんですがね」
      果たして効果覿面だった。
      私が告白した瞬間、 忠文氏を含む海上家全員の口から、深々とした嘆息が漏れた。
      「そうですか。 あれがお見えになっていたんですか......」
      観念したかのように忠文氏はずっしりと項垂れ、今度は重苦しいため息をついた。
      「............だったら構いません。 どうぞ、ご覧になってください」
      再び顔をあげると、忠文氏は傍らにいた克己氏に「いいよな」と小声で同意を求めた。
      克己氏は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、「仕方がねえ」と言ってうなずいた。
      「中は真っ暗です。 私が先に入って電気をつけますから」
      半ば逡巡するようにしながらも、のろのろとした足取りで忠文氏が扉の前へと立つ。
      がちんと硬い音を立て、扉が手前に開かれた。
      身を屈め、忠文氏が扉の向こうへと消える。
      覗きこむと、中は墨で塗り潰したかのように真っ黒である。
      これがこの家に渦巻く陰気の正体かと直感した。それほどまでに闇がどす黒く、禍々しい。
      中からぱちんと小さな音がして、電気がついた。それでも闇は和らがない。
      「どうぞ」
      中から忠文氏の声がした。私も身を屈め、小さな扉を這うようにしてくぐった。

    人形


      これだけは決して譲ることができません――。
      海上家がひた隠しにしてきたものを目の当たりにした瞬間、ようやく今件の 全容が見えた。
      到底、私の手に負える代物ではない。
      海上家を辞去する直前、 それが私の下した結論だった。

      電気は点いていたが、やはり暗い。冥府のように冷たく暗い。
      扉の中はおよそ四畳半ほどの古びた小さな板の間だった。壁面も天井も全て板張りである。
      仏間よりも天井は格段に低く、腕をあげると天井板に指が触れそうなほどだった。
      部屋の真ん中に吊り下げられた裸電球が、ぶらぶらと円を描いて宙に揺れている。
      揺れに合わせてどす黒く染まった私の影が、板壁の上でどろどろと狂ったように踊った。
      立っているだけで気が滅入る、扉な部屋だった。なんだか座敷牢のような雰囲気でもある。
      空気はひんやりと冷たく、身震いしそうなほど寒い。
      「こちらです」
      呼びかけた忠文氏の傍らに目が行った瞬間、思わずぎょっとなって身が竦んだ。
      白い綿帽子を被り、純白の白無垢に身を包んだ、あの干乾びた女がいた。
      綿帽子の隙間からばさばさと肩口へ落ちる、水気を失くした黒髪の束。
      ぎょろりと見開かれた大きな目。
      微笑するかのように捲れあがった上唇。
      口元からちらりと覗く、黄ばんだ歯。
      何もかも、寸分たがわず同じだった。
      海上家へ訪問して以来、霞さんの肩口に私が再三視続けてきた、あの花嫁の顔である。
      冥い部屋の奥に設えられた椅子の上に、花嫁は背筋をぴんと伸ばして腰かけていた。
      手前には大きな経机が置かれ、机上には灯明と花瓶がそれぞれ一対ずつ立てられている。 机上には他にも、御鈴に香炉、数珠など、供養に用いられる仏具が整然と並べられていた。
      「明和時代に亡くなった、 エツという名の先祖の人形です」
      花嫁を見おろし、忠文氏が厳かにつぶやいた。
      「我が家に降りかかる災いを鎮めるため、ここに安置して代々供養してるんです」
      背後の扉から首を差し入れ、 克己氏が言葉を継いだ。
      「古いもんで傷みは激しいですが、髪の毛に歯、爪は本人のを使ってるって話です」
      「そうですか」とは応えたものの、本当にそうか、と思わずにはいられなかった。
      "人形〟の目は、確かに艶々とした光沢を帯びており、一見してガラス玉だと知れる。
      髪の毛に歯、爪が本人のものを使っていると言うのなら、それも確かにそのとおりだろう。
      だが、本当にそれだけか? 本当に”それだけしか使っていないのか?
      人形の醸しだすあまりにも生々しい〝生〟の痕跡に、思わずそう勘繰らざるを得なかった。
      恐る恐る前へと足を踏みだし、"人形"の顔をまじまじと覗きこむ。
      木皮のように茶色く変色しているが、もちろん木皮などではない。
      では、この皮膚の材質はなんなのだ?
      少なくとも桐塑や木には見えない。ゴムでもない。石膏でもない。プラスチックでもない。
      膝元にゆったりと重ねられた両手もそうだ。
      指の骨格や皺などの作りが、あまりにも精巧過ぎる。
      再び顔へと目を向ける。顔の皮膚も同じだ。 あまりにも”人間の顔"をし過ぎている。 これが本当に〝人形〟ならば、なぜ海上家の面々は、先ほどあれほどまでに強固な態度でこの部屋の存在を隠そうとしたのだ。
      本当にこれは――人形なのですか。
      「精巧な作りでしょう? 人形ですが、生きてるみたいに見えませんか? ねえ?」
      まるで私が問いかけるのを察知したかのように、忠文氏が早口で一気にまくし立てた。
      「当時、当家が懇意にしていた、腕のいい人形師に製作してもらったもののようです」
      剥製師の間違いではないですか?
      喉元まで言葉が出かかったが、結局引っこめることにした。
      忠文さんの目が、また少し鋭くなっていたからである。
      「今までご依頼された私の同業は、これをご覧になって、なんとおっしゃっていました?」
      詮方なく話題を変えて訊ねてみると。
      「この部屋のことは誰も気がつきませんでした。気づかれたのは郷内さんが初めてです」
      事も無げにそう返された。
      それは違う。私が初めてなのではない。残念ながら、そんなに私は優れていない。
      気づいていた者は、他にもかならずいたはずなのである。
      関わりたくないと思ったから、あえて触れずにやり過ごしたのだろう。
      直感でそう判じた。
      ――大変申しわけありませんが、私の手には負えません。
      歴代の同業たちが放った、先刻の言葉が思い返される。私も全く同感だった。
      だからあんなにも入れ替わり立ち替わり、同業他者が出入りする羽目にもなったのだ。
      「そうですね」
      「ご家族の皆さん以外で今までこの部屋に入ったのは、私が初めてということでしょうか」
      「そうですね」
      と答えた直後、忠文氏は「ああ......」 と独りごち、再び口を開いて訂正した。
      「そういえば昔、私の女房の両親が入ったことはあります。 一度きりですがね」
      「亡くなった奥様のご両親が入られたと?」
      「そうですね。どうしても人形を見たいと言われまして」
      「ご両親はこの部屋をご覧になって、なんとおっしゃっていましたか?」
      「あ? 別になんにも言ってねえ。 なんでそんなことを訊く?」
      眉間に深々と皺を刻んだ克己氏が、すかさず間に割って入る。
      「いえ別に。ただ訊いてみただけですよ」
      何かの拍子にまた怒鳴りつけられるのも癪だったので、適当に言葉を濁してごまかした。
      「奥様のご両親とは、その後もお付き合いがあるんですか?」
      「死にましたよ」
      忠文氏が即答した。
      「ああ、御歳で?」
      「いや、うちから帰ったあと、すぐに死んだよ」
      今度は克己氏が答えた。死んだよ、の抑揚が、なんだか私への警告のように聞こえた。
      「脳溢血かなんかだって聞いたが、親しい仲でもねえからそれ以上は知らん。でも死んだ」
      克己氏の顔はまるで、お前もこれで死ぬな、とでも言いたげだった。
      「それでは私も死んでしまうんですかね?」
      半ば嫌味も交えて尋ねると、 克己氏はいかにも興味なさげに「さあな」と、だんだんと、露骨に柄が悪くなってきている。
      「仏具一式が揃っていますが、 ここにも毎日手を合わせているんですか?」
      克己氏に構わず、今度は忠文氏に問うた。
      「ええそうです。 ただ、ここを毎日拝むのは、代々我が家に嫁いだ花嫁の仕事なんですよ」
      にこにこと、心なしか誇らしげな色を浮かべながら、忠文氏が答えた。
      私はその笑顔に、なんだか筆舌に尽くし難い不快感を覚えた。
      「私が毎朝お供え物をして、手を合わせているんです」
      扉をくぐり、霞さんが中へ入ってきた。うしろから雅文さんも続く。
      「ここでお経をあげるんです。 『どうかわたしをお守りください』ってお願いしながら」
      私の傍らへ来て、霞さんが続けた。その声にはなんの感慨も浮かんでいない。
      「先代の花嫁さんにすがって、祟りから守ってもらうんですよ。 我が家のしきたりです」
      したり顔で忠文氏はのたまったが、私はむかむかと気分が悪くなるばかりだった。
      霞さんにちらりと視線を向ける。
      顔を伏せ、人形と決して目が合わないようにしているように、私の目には映った。
      「このエツさんはね、我が家の嫁たちを代々守ってきてくれた、大事なご本尊様なんです」
      ぎらぎらとした熱っぽい目で忠文氏は語るが、果たしてそうかと思わざるを得ない。
      きっとこうなのだ。 わざわざ聞きださなくても分かる。この男の態度と語り口、さらにはこの部屋に渦巻く異様な空気が、すでにそれを証明している。
      どうせこう言ったのだろう。
      死ぬぞ。拝まないと死ぬ。お前は死んでしまう。死にたくなければおすがりするしかない。
      そう言って、この家は半ば強制的に代々ずっと、自分の伴侶を拝ませ続けてきたのだろう。
      その結果、どのような悲劇を生むことになるのか、ろくに考えもせずに。
      それは想像するだにひたすら哀れで、健気で、あまりにも惨たらしい所業である。
      毎朝欠かさず、このひたすらどす黒い、陰気の渦巻く小部屋に通い詰める花嫁たち。
      ――死にたくないです死にたくないですどうか私をお救いくださいお助けください。
      気味の悪い花嫁姿の剥製を前に、迫りくる死の恐怖に慄きながらただただ一心不乱に経をあげ続ける、純真無垢で、ひたすら一途な花嫁たちの想い。
      想像するだけで吐き気がしてくるほど、それはあまりにもおぞましい光景である。
      心得を間違えたな、と思った。
      こんな剥製などに何も救えるはずがない。現にこれまでずっと、失敗しているではないか。
      これは先祖ではなく、先祖のいわば残骸に過ぎない。なんの力も持ち得ないものだ。
      あるいはそう、手を合わせる花嫁自身の未来の姿―成れの果てであるともいえる。
      拝めば拝むほど。願えば願うほど。生きたいと思えば思うほど。
      絶望と焦燥感に苛まれ、日に日に正気を失っていく花嫁たちの姿が目に浮かぶようだった。
      忠文氏の義父母が、なぜこの部屋に入ったのか。わざわざ訊かずとも察しはつく。
      大方、娘に泣きつかれたのだろう。それでこの部屋に夫婦揃って詰めかけたのだ。
      霞さんも夢を見るわけである。むしろ見ないほうがおかしいとも言える。
      それは脳が発する警報である。心が壊れ始め、悲鳴をあげている何よりの証ではないか。
      そもそもこのエツという花嫁自体もそうだ。 生前、自ら剥製になりたいとでも望んだのか。
      私には到底そのようには思えなかった。
      最前まで霞さんの肩口につきまとっていたのは、彼女を守るためだとでも言うのだろうか。
      私にはむしろ、この部屋の存在に気づいてほしくて縋りついていたようにしくて縋りついていたようにし か思えない。
      純白の白無垢は、よく見ると生地の端々が黄ばみ、ゆっくりと朽ち始めているのが分かる。
      顔もそうだ。とうの昔に朽ち果てている。
      こんな顔を見られたいと思う花嫁が、いるだろうか。
      もはや花嫁どころか、女ですらない。 女という性すら剥奪された、かつての幸福の残骸だ。
      そう思うと、この干乾びた花嫁に私はおぞましさよりもむしろ、強い哀れみを感じた。
      化けて出たくもなるだろう――。
      気づいて、滅してほしかった。先刻までのあなたの想いは、そうではなかったか?
      拝むほうも拝まれるほうも、いずれもひどい始末なのである。
      功徳も利益も救済もない。むしろこれは自発的な呪いである。
      これで何もかもようやく合点がいった。 簡単な道理だ。
      ――これではみんな、死んでしまう。
      忠文氏と克己氏の反応はすでに分かりきっていたが、それでも言わずにはいらえなかった。
      「大変申しあげにくいことですが、祟りの原因はこれではないかと、私は思います」
      人形を指差し、ひと思いに言ってやった。
      「どういうことでしょうか?」
      予想どおり、忠文氏の顔から潮が引くように笑みが消え失せた。
      「祟りでもなんでもありません。 強迫観念、あるいは自己暗示のようなものだ と思います」
      「だから......。 どういうことでしょうか?」
      語気が少しだけ荒くなる。目はもうすでに笑ってはいない。信仰の対象を否定された者に特有の、冷ややかで感情に乏しい、それはとてつもなく厭な目だった。
      「忠文さんの奥さんや克己さんの奥さんも、こちらを拝まれていましたか?」
      「ええ、そうですよ。代々ずっとそうしてきています。で······ だからなんなんですか?」
      いらいらしているのが手に取るように分かる。だが怯むわけにはいかなかった。
      「嫁いだその日から 『死ぬぞ死ぬぞ』と言われながら、こんなものを毎日拝んで御覧なさい。 むしろ厭でも"死"というものを実感します。神経を病まない ほうがおかしいと思います。奥様を救うため、というお気持ちは察するものが ありますが、心得違いかと思います」
      忠文氏はむっつりと口を閉ざし、無言のまま私を値踏みするような目で凝視する。
      「なんだ、今度はなんだ! なんかうちのやりかたに文句でもあんのか?」
      気まずい沈黙を引き裂くかのように、伝法な口調で克己氏が再び会話に割りこんできた。
      こちらも大概頭にきていたので、わざと語調を強めて言ってやった。
      「言い伝えのとおり、かつては本当に嫁いだ嫁が死ぬという祟りがあったのか もしれません。しかし大変申しわけありませんが、少なくともこの人形を拝み 始めてからは違うと思います。神経の問題です。 激しい強迫観念と自己暗示にかけられた末の衰弱死や病死なのではないかと、私は思わざるを得ないと言っているんです」
      「偉そうになんなんだこの野郎!」
      わなわなと両肩をぶるつかせ、克己氏が私を怒鳴りつける。
      「何がこの野郎なんですか?」
      ほとんど間髪容れずに言い返してやる。本当は張り倒してやりたかった。
      「うるせえ、この野郎!」
      言い返されてさらに火がついたらしく、克己氏は一層声を荒らげた。
      「大体これは人形ではないでしょう? 黙っていれば分からないとでも思ってましたか?」
      売り言葉に買い言葉である。冷水を浴びせてやろうと思い、あえてタブーに触れてやった。
      「なあああんだ、てめえこの野郎!」
      淀んだ目をぎらぎらと血走らせ、克己さんがずかずかと私の胸元まで詰め寄ってくる。
      案の定、図星を突かれて激昂しているのが了解できた。
      同時に、ああやはり剥製なのだと確信して、首筋にふつふつと粟粒が湧いた。
      「祖父ちゃん、落ち着け! 落ち着けよ!」
      すかさず雅文さんが克己氏の腕をぐいとつかみ、私の前から引き離した。
      「なんだなんだ! さっきから貴様、無礼なことばっかり! 一体何様のつもりだ!」
      それでも克己さんは猛犬のように首を突きだし、なおも盛んに私へ噛みつこうとする。
      「別に何様でもありませんよ。 私は依頼された仕事をしているだけです」
      「だからなんなんだよ貴様! 何が仕事だ! ふざけやがって! ぶち殺すぞ!」
      「大人しく聞いていれば殺すだのなんだのと。 ヤクザですか、あんたは」
      「祖父ちゃん! やめろって!」
      雅文さんが克己氏の腕をさらに強く引っ張る。
      「すみません。なんか祖父ちゃん、気が動転してるみたいで」
      雅文さんが頭をさげさげ、克己氏を部屋から出すべく、肩口を引っ張る。しかし克己氏は雅文さんの制止を振り払い、頑として動こうとしない。
      「なんなんだ! うちの仏の花嫁さんを拝んだからなんなんだ! それの一体何が悪い! 分かったふりして拝み屋風情が偉そうなことを抜かすな!」
      「よせ親父」
      猛る克己氏を、 忠文氏が静かな声でたしなめた。
      「自己暗示とかおっしゃいましたね? 改めてお伺いしますが、どういうことです?」
      口元にはうっすらとした笑みが戻っていたが、目の奥は底なしに冥い。最前の茶の間でのやりとりとは、もはや別人といっても差し支えのないほどだっ た。
      秘密を暴かれたあげく、あまつさえそれを全面否定されたことに対する烈しい怒りと反発。あるいは自分たちがおこなっていたことへのうしろめたさを必 死に否定するための虚勢。
      大方そんなところから発露する、浅ましい感情の剥きだしと理解する。
      なんのことはない。こんなことになるから、今まで隠し続けてきたのだろう。
      非難されるのが厭だから。知られれば非難されるのが分かっているから。 なんのことはない。だからこれほどまでに怒りもするのだろう。
      己の所業を正当化したいから。己の所業が間違いであると本当は薄々感づい てもいるから。
      心の動きは理解できないこともないが、それでも到底共感できるものではな い。 そもそも花嫁がこれ以上死なずに済むよう、私に頭をさげてまで頼んだのは 誰なの? こちらはその意向にしたがい、ありのままの事実を伝えているだけのことで ある。 本末転倒も甚だしい。 原因がようやく分かった瞬間、今度はその原因を守ろうとしている。
      矛盾しているようだが、当事者たちはそうとも思っていないところが腹立たしかった。
      とどの詰まり、この家にとって本当に大事なのは花嫁なのではない。
      過度に神格化されたこの花嫁の剥製と、それに対する盲目的な信仰心のほうなのだ。
      これがこの家を仕切る男たちの本性なのだと、ここに至ってつくづく痛感させられた。
      ゆえに望みはもはや極めて薄いものだと判じ始めてもいた。
      歪んだ信仰に心を奪われた人間の執着を解くことが、甚だ容易なものでないということは、職業柄、これまでにも厭というほど経験してきている。
      正論を述べれば反論のための反論〟で、ことごとく切り返される。
      理屈で追い詰められそうになると、先ほどの克己氏のように今度は恫喝や暴力に訴える。
      核心を突かれようとも、意固地になって撥ねのける。
      大概、この堂々巡りである。おそらく何を言ったところで暖簾に腕押しなのだ。
      面倒なことになったなと思う。ただ、先に核心に触れてしまったのはこちらのほうである。このまま投げっ放しで帰るわけにもいかなかった。
      海上家の男どもの高圧的な態度を前に自然と口も重くなり始めていたが、それでも依頼を受けた手前、務めとして言うべきことは言わなければならなかった。
      「今申しあげたとおりです。 何も祟りや因縁を引き合いにださずとも、これは 心の問題です。 善意で勧めてきたこととはいえ、こんな祈願は死を宣告された若い奥様にとって精神衛生上、百害あって一利なしです。毎日迫り来る死の影に怯えながらこちらの前で手を合わせ続けたあなたの奥様やお祖母様、そして霞さんのお気持ち、お考えになったことはありませんか? 大変な心的負担 だったことでしょう。 これを拝むという行為自体が、すでに当事者にとってあ まりにも身に余る負担になったのではないかと、私はそう思わざるを得ないのです」
      ――冷静に、よく考えてみてください。これ以上繰り返してはいけません。懇々と、子供に言って聞かせるようにゆっくりと、言葉を吟味しながら語った。
      「それはまあ、確かにおっしゃることには一理あるかとも思います。けれども なんでしょう。ならば私たちがこれまで嫁に勧めてきたことは、間違いだったということですか?」
      わずかに哀しげな目をして、忠文氏がのろのろと私に訊き返した。
      間違いというよりは盲信が原因なのだと私は思ったが、あえて口にはださなかった。
      再び穏やかな語調を意識しつつ、慎重に言葉を選ぶ。
      「少なくとも奥様の身を案じた、というお気持ちは本物です。間違いはなかったと思います。 ただ、このやりかたは有効ではなかったと思うんです。現に、これまで嫁いできた奥様方はこちらを拝み続けたにもかかわらず、結局皆さん、亡くなっていらっしゃいます。そろそろご家族の守り方を考え直してみても、よろしい頃ではありませんか?」
      忠文氏はしばらくの間、無言で私の顔を見つめていたが、しだいにゆっくりと目を伏せた。冥い床板に視線を落とし、そのまま沈んだように黙ってしまう。
      克己氏も今度は猛ることなく沈黙していた。忠文氏と同じく、冥い天井を無言で見あげ、苦しげな面差しで何かを諳んじるかのように、もごもごと唇を動かしている。
      「そうですか... おっしゃることは分かりました。では、どうしろと言うんです?」
      長い沈黙のあと、再び忠文氏が顔をあげた。その目には、先ほどまでの鋭さはない。 「人形の処分をお勧めします。 無理ならば二度と霞さんにこれを拝ませないことです」
      間髪容れずに進言した。
      「確たる根拠があるかと聞かれれば、実のところありません。人形と花嫁の死を関連づける客観的な証明も全くできません。でも試してみませんか? 結果的に人間ひとりの命を救う、とても意義のある行動です。出来うることは全て実践し、わずかな可能性にでも希望を託す。病気の治療と同じことです。 大切 なご家族を守るためなら、どんなことでもするでしょう?だったらこれも、 決して例外ではないはずです」
      言い終えると、冥い小部屋に再び長い沈黙が訪れた。
      霞さんも含め、皆一様に口を閉ざし、顔には苦悶の表情を浮かべている。気まずい沈黙だったが、それでもやみくもな反論や恫喝が消えたのはよい兆候だった。
      考えるということは迷っているということの証でもある。ならば存分に迷ってほしかった。
      「霞は......うん。霞はどう思う?」
      重々しい沈黙を破ったのは、克己氏のひと声だった。
      「お前、花嫁さんを拝むのつらいか? 花嫁さん、嫌いか? どうなんだ?」
      言いながら霞さんの顔を舐めるような動きで、ゆっくりと覗きこむ。
      「わたしは......。 わたしは別に、つらくはありません」
      たっぷりとした間を置き、霞さんは薄黒い眼差しでぽつりとつぶやいた。
      しまったと思った。言わされてしまった。
      「郷内さんよ。あんたのおっしゃることも、まあ分かる。本当だ。でもな、うちにはうちのしきたりというか、守るべきものもあるんだ。 分かってください」
      私に向き直り、 克己氏はいかにも申しわけなさそうに頭をさげたが、その顔 には極々薄く、してやったりといった下卑た色が浮かんでいた。
      そこへここぞとばかりに息を吹き返した忠文氏が追い打ちをかける。
      「お気持ちは大変ありがたいですが、 そんなわけです。 うちに代々伝わるやりかたなんです。申しわけありませんが、これだけは決して譲ることができません。お許しください」
      丁重に詫びてはいるが、その目は安堵と歓喜にどっぷりと溺れ、にまにまと微笑んでいた。
      最悪である。 完全に出し抜かれた恰好だった。
      「雅文さんは、どのようにお考えですか?」
      どうにもならないと知りつつも、雅文さんへほとんど形式的な質問を向けてみる。
      「僕自身は、そうですね。霞が毎朝花嫁さんを拝むことを嫌がっているわけで はないですし、やっぱり何かしら、心の拠り所となるべきものは必要だと思うんです。親父も祖父ちゃんもこう言ってることですし、僕の口からはなんとも…」
      思考停止か。お前は一体、誰を護りたいのだ。
      そう思ったが、顔には決してださないよう必死に努力した。
      霞さんにも水を向けようかと考えたが、端から答えが見えている質問をしても仕方がない。 この場で霞さんを問い詰めるような形になるのも避けたかった。
      「とにかく、私に提案できることはこれしかありません。強制はしませんしできる立場でもありませんが、悪いことは言いません。さっさとこれを処分すべ きです」
      言い終えるなり、男たちの目に再びどす黒い光が灯るのがはっきりと確認できた。
      もはや何も言うまい。潮時である。やるべきことは全てやった。
      これ以上の問答は一切無益と判じ、私はこの忌々しい旧家から一刻も早く立ち去る方向へ、潔く思考を切り替えることにした。
      「余計なことでしたね。お騒がせをして大変失礼いたしました」
      捨て台詞のようにひと言吐き捨てると、私はいそいそと陰気な小部屋を抜けだした。

      帰りしな、車へ乗りこむ私を見送りに出てきたのは、霞さんだけだった。
      男たちは玄関口で形ばかりの一礼をするなり、そのまま揃って家の奥へと消えていった。
      別段、腹は立たなかった。むしろほとほと呆れ果て、怒ることさえ忘れていた。
      玄関から一歩外へ抜けだすと、陽の光があまりにも眩しく、目を射貫くほどに痛かった。
      異様な陰気に目がすっかり慣れ過ぎていたのである。海上家の内部がいかに暗かったのか、改めて実感させられた。
      「今日は本当に申しわけありませんでした」
      霞さんに頭をさげられ、逆に私のほうが申しわけない気持ちになった。
      「構いませんよ。気にしてませんから。 ばたばたしていて結局、何もできませんでしたけど、仕事場に戻ったら安全祈願の御祓いだけはさせてもらいます」
      なんだかいたたまれない気分になって提案すると、霞さんは目元を綻ばせて喜んでくれた。紺色の瞳が四月の穏やかな陽光を受け、一瞬、深い藍色に輝く。 笑顔がとても朗らかである。 彼女がいずれ死んでしまうのかと思うと、やりきれない気持ちにもなった。
      「ご無事をお祈りいたします。 今日はありがとうございました」
      丁重に礼を述べ、門口から車をだした。 サイドミラー越しに後方を見やる。
      霞さんも門口まで現れ、私の車が見えなくなるまでずっと見送ってくれていた。
      その姿がひどくいじらしく感じられ、帰りの車中で私はさめざめと泣いた。

    告白


      ――急なお願いで、 ご迷惑じゃありませんでしたか。
      海上家を辞去した五日後。霞さんが急遽、私の仕事場を訪れる運びとなった。

      昨日の午後、霞さんから電話があった。
      初め、私はまたぞろ出張の依頼かと思い、そうであれば丁重にお断りしよう と考えていた。無論、霞さん個人に問題があるのではない。あの干乾びた "花嫁さん"を前に曝けだされた海上家の男たちの態度が、問題なのである。
      彼らのあの様子を見る限り、私が拝み屋としてできることは、もはや何ひとつとしてない。再びあの家に出向いて要らぬ罵声を浴びせられるのは、ごめんこうむりたいことだった。
      ところが霞さんの希望は逆だった。私が海上家に赴くのではなく、霞さん自 身がこちらへ直接出向いて、話を伺いたいのだという。
      ――明日は町内会の温泉旅行で、お祖父さんが夜まで戻らないんです。
      霞さんは電話口で囁くようにそう言った。聞けば、霞さんひとりでの来訪を希望だという。
      お祖父さん――というのはおそらく克己氏のことだろう。
      祖父が家に居ないからこそ、外出ができる。私の耳にはそのようにしか聞こえなかった。
      私としてもこの際なので、霞さん個人とは話をしておきたいことがいくつもあった。 海上家の男たちが同席しないのなら、なおのこと都合がいい。件の人形に関する件も含め、今後の対応について霞さん自身にいろいろと助言をしてあげら れるだろうと判じた。
      断る理由は何もなく、むしろ歓迎すべき流れだった。私はふたつ返事でこれを承諾した。
      「今日は克己さんがご不在だそうですが、普段は外出とか、しづらいんですか?」
      「そういうわけではないんですけど、いちいちどこに行くのかとか、細かく訊かれるんです。 失礼だとは思いますけど、こちらへお伺いすると言ったら、ダメだと言われそうな気がして。 夫とお義父さんは日中仕事に出てますけど、お祖父さんは年中家にいますから」
      家族に知られずに来られる日が、今日しかなかったんです。
      わずかに顔を曇らせ訥々と答える霞さんが、なんだかとても不憫に感じられた。
      「もちろん、わたしのことを心配しているからだとは思うんです。でも、ちょっと買い物に行くのにも、かならずお祖父さんが一緒についてきます。ひとりきりになれる時間がわたし、実はほとんどないんです」
      おかげで友達に会う時間はおろか、最近では実家に戻るのも遠慮がちなのだという。
      「あのあとも、例の人形は拝まれているんですか?」
      私が尋ねた何気ない質問に、霞さんはいかにもバツの悪そうな面持ちにな る。いたずらのばれた子供のような上目づかいで私を見ると、 「はい・・・・・・ 一 応。 すみません」と答えた。
      「いや、別に謝らなくてもいいんです。何も強制したわけではありませんし、そんな権限も私にはありません。拝みたくて拝んでいるのなら、それはそれで構わないんですよ」
      「わたしも別に、拝みたくて拝んでいるんじゃないんですよ......」
      下唇をきゅっと噛み締めるようにして、霞さんは小さくつぶやいた。
      「この間は家族の前だから言えませんでしたけど、わたし、本当はあんな人形、大嫌いです。 先日、郷内さんがおっしゃったとおりだと思います。毎日、 あの人形に手を合わせていると、気持ちがどんどん沈んでいってしまうんで す。 大丈夫、大丈夫って自分に言い聞かせても、わたしはこのまま本当に死ん でしまうんじゃないかな、助からないんじゃないのかな、とか、気持ちがどう しても悪いほうに引っ張られていってしまうんです」
      でも――と、霞さんは続けた。
      「お義父さんからもお祖父さんからも強く勧められているので、厭とは言いきれないんです。 先日もふたりで説明してましたけど、海上家に代々伝わる除災 法なんです。拝んだところで結局、最後にはみんな死んでるんですから、何の 意味もないんじゃないかと思うんですけど。ただ、そう言うと『これを拝んで いるから、みんな少しでも寿命が伸びているんだ』なんて理屈を返されて、結 局それ以上話にならないんです」
      一気にそう言い終えると、霞さんは曇った顔で小さくため息をついた。
      「霞さん自身は、あの家に祟りというものが本当にあると、お考えですか?」
      それを信じるか信じないかによって結果は真逆のものとなる。少なくとも今 件に関してはそのように私は考えていた。
      「大筋は先日、郷内さんがおっしゃったとおりだと、わたしも思うんです。強い強迫観念と自己暗示。 それはわたし自身が毎日身をもって実感してますから、よく分かります」
      でも、と霞さんは再び言葉を継いだ。
      「郷内さんはあの家に来られて、何か感じませんでしたか?」
      「何か、とおっしゃいますと?」
      「家、暗くありませんでしたか?」
      少しだけ声を大きくして、霞さんが問うた。
      「ああ、そこか」と思った。唯物論と観念論の狭間で、この人は懊悩しているのである。
      霞さん自身もできることなら花嫁の連続死の原因を祟りや因縁などではなく、強迫観念や自己暗示のほうに求めたいのだ。
      ただそうは望んでも、単純にそうとは割りきれないものが、あの家にはある。
      おそらく霞さんは、そのように感じているのである。
      割りきれない要素の最たるものが、今霞さん自身が口にした、あの家の冥さなのだ。
      「煤が舞うように真っ黒でしたね。私の目がおかしくないのなら、なんとも言いようのない異様な冥さでした」
      率直な感想を述べると、霞さんの顔がとたんにぱっと輝いた。
      「そうですよね! あの家、すごく暗いですよね! 日当たりの関係がどうとか、そういう問題じゃないんです。なんていうか家中、どこもかしこも空気が どんよりしてるっていうか、電気をつけても明るさを感じないっていうか。と にかく、どんな時でもすごく暗いんです」
      すでに私も現場を目の当たりにしてきているため、ただただうなずくばかりだった。
      しかしそこへ再び、霞さんの「でも」が続いた。
      霞さんの口から飛びだす 「でも」を聞くたび、海上家の男たちの顔が嫌でも頭にちらつき、やるせない気持ちになる。
      「わたしがこんなことを言っても、うちの人たちは誰も分かってくれないんですよ。ずっとあの家に住んでいるから、目が慣れちゃって分からないんですかね?」
      つかのま輝いていた笑顔が再び暗転し、霞さんは唇をきゅっと窄めた。
      「......あの家、 どうしてあんなに暗いんでしょう」
      当惑と不安の入り混じった面持ちで、霞さんが私に尋ねる。
      正直なところ、明確な原因は私にも分からない。見たまま感じたままの印象から解釈して、「悪い気が家中に溜まっているから」 「家の中に悪い霊が居るから」と語るのはたやすい。
      ただ、生業として目に視えないものを扱う責任がある手前、なんでもかんでもやみくもに霊の仕業、怪奇現象だと断じるのは憚られるものがあった。
      「実は昔、この家もそうだったんです。 かれこれ何十年も続きました。大分長かったです。 恥ずかしい話ですけど、うちも昔はいろいろあったんですよ。でも今は暗くないでしょう? きっと問題がきちんと解決すれば、霞さんの家も明るくなるんじゃないでしょうか」
      熟考の末、言葉を選んで私の口から出た回答は、せいぜいこんな程度の気休めだった。
      これだってなんの根拠もなく、印象的な解釈であることに違いはない。けれども不用意な持論を展開して霞さんの不安を煽るよりは、いくらかマシだとも思った。
      「そうですよね。いつかはきっとそうなりますよね」
      拙い気休めにもかかわらず、それでも霞さんは目尻に皺を寄せ、微笑んでくれた。
      「ところで、夢は相変わらず見るんですか?」
      話題を変える。
      「郷内さんがあの家にいらしたあとに、一回だけ見ました。 確か、三日前だったと思います。あれもわたし、わけが分からなくてすごく怖いんです。中身はいつも同じですけど、夢とは思えないくらい生々しいですし」
      「そうですか。 家の冥さと夢以外では、何か他に気になることはないですか?」
      些細なことでも話すことで気が安らぐのならばと思い、霞さんに水を向けてみる。
      「今回のご相談と、直接関係のないお話でも大丈夫ですか?」
      別に構いませんよ、と答える。
      「――わたし、 子供の頃に幽霊を見たことがあるんです」
      目元を薄く細めながら、霞さんが言った。
      「幽霊、ですか」
      「よっぽど怖かったからなのかな......。 しばらく忘れていたんですけどね。海上家に嫁いであの夢を見るようになってから、ふっと思いだしたんですよ。 その頃の記憶」
      わずかに遠い目を泳がせたあと、霞さんは語り始めた。

    幽霊


      小学四年生の夏休みだったという――。
      霞さんの実家に、同い年の従姉妹が泊まりにきた。
      従姉妹は明るく無邪気な性格。小麦色に焼けた肌が健康的で、とても活発な女の子だった。一方、当時の霞さんはどちらかというと内向的で、人見知りの 激しい性格。
      ふたりはまるで対照的な性格だった。
      霞さんの実家は、三陸海岸の沖合いに浮かぶ小さな島にあった。
      従姉妹は、生まれて初めて見る海にいたく感激し、 日がな一日、海に出掛けて遊んでいた。対して霞さんは家の中で本を読んだり、お人形遊びをしたりするのが好きな娘だった。
      躍動的な従姉妹の性分に初め、霞さんは距離を置いて遠巻きに彼女を眺めるばかりだった。しかし、そこは子供同士のこと。ほどなくふたりは仲よく打ち解けることになる。
      そこから先の毎日はとても楽しく、 素晴らしいものになった。
      昼間は従姉妹が海遊びに霞さんを誘い、夕方から夜は霞さんがお人形遊びに従姉妹を誘う。ふたりはまるで姉妹のように片時も離れず、毎日胸躍るような 時間を過ごした。
      ある日、海で遊び疲れた霞さんと従姉妹は、家の中で本を読んで過ごすことになった。
      霞さんが読みさしの本を開いて読んでいると、従姉妹が本棚からお化けの本を持ってきた。当時、霞さんはちょっとしたマイブームで、お化けや妖怪の本 にハマっていた。
      「こういうの好きなの?」と訊かれたので、霞さんは「うん、少し」とうなずいた。
      すると従姉妹は霞さんの顔を見てにっと笑い、それから得意げにこんなことを言いだした。
      「あたしね、お化けが視えるんだよ!」
      従姉妹は小さい頃から、足だけしかない女の幽霊や、太陽の下でどろどろに溶ける男など、不思議でぞくぞくするものをいっぱい視たことがあるのだという。
      本の中の出来事ではなく、生身の人の、それも仲のいい従姉妹の口から聞かされる怖くて奇妙な話の数々は、たちまち霞さんの心を虜にする。
      その日から従姉妹にせがんで寝物語を語ってもらうのが、霞さんの至福のひと時になった。従姉妹は嫌な顔ひとつせず、毎晩遅くまで霞さんに怖い体験談を語り聞かせてくれた。
      そうして毎日怖い話を聞かされているうち、霞さんもお化けを見たいと思うようになった。 そこで思いついたのが、心霊スポットの探検である。
      家の近くに位置する寂れた岬の下に、昔から女のお化けが出ると噂をされる洞窟があった。ひとりで行くのは怖いけれど、ふたりでなら行ってみたいと、霞さんは従姉妹にお願いした。
      「怖くないの?」と従姉妹に尋ねられたが、霞さんは「大丈夫」と胸を張ってみせた。
      さすがに夜は怖過ぎるので、お昼ご飯を食べ終えた午後の早くにふたりで洞窟へ向かった。
      ごつごつした岩肌の下り坂をてくてく歩いていくと、やがて目の前に海が開けた。波飛沫の砕け散る岩礁をいくつも飛び越え、さらに先へ先へと進んでいく。
      そのまま進み続けていくと、岬の真下に黒い穴を広げる、小さな洞窟の前に たどり着いた。
      「この中にね、女のお化けが出るんだって」
      うずうずとした笑顔を少しだけきゅっとしかめながら、霞さんが従姉妹に告げる。
      手には家からこっそり持ちだしてきたインスタントカメラを握っていた。もしもお化けが出たら撮影して、雑誌やテレビに送るつもりだった。
      だが、いざ暗い洞窟の前に立つと、その雰囲気は予想していた以上に怖いものがあった。霞さんは従姉妹に先導を頼み、彼女の背に貼りつくようにして中へと分け入ることにした。
      怖々身体をくぐらせてみると、洞窟の内部は思ったよりも狭く、奥ゆきのないものだった。懐中電灯の明かりを照らしつければ、どん詰まりの岩壁に光が 当たってい輪を浮かべる。
      そのままゆっくり歩を進め、上へ下へと光をかざしてみると、どん詰まりになった岩壁の足元に何かがぼんやりと浮かびあがるのが見えた。
      ふたりで近づいて見てみると、石で造られた小さなお宮だった。
      家の庭によくある、お稲荷さんを祀ったお宮にそれは造りが似ていた。けれども石の色や質感などを見ると、とても古そうなお宮だった。
      お宮の周りには、お幣束や小さな風車がずらりと並んで立てられていたが、みんな古びてぼろぼろになっていた。
      「怖い?」と従姉妹に尋ねられたが、霞さんは強がって「平気!」と応えた。「ね、写真撮ってみようよ」
      従姉妹の提案に霞さんは「うん!」と顔を輝かせ、お宮に向かってシャッターを切った。
      フラッシュの強烈な閃光を浴びて真っ暗闇の洞窟内が一瞬、真昼のように明るくなる。
      再び暗転。
      もう一枚撮ろうとカメラを構えたところへ、 従姉妹が霞さんの腕をぎゅっと掴んだ。
      振り返ると従姉妹はいかにももう飽きたという表情で、霞さんに「帰ろ」と提案してくる。
      「うん」と応えて、そのままふたりでぱたぱたと洞窟の入口まで戻った。
      「ねえねえ、中にお化けいた? わたし写真撮ったけど、何か写ってるかなあ?」
      手にしたインスタントカメラをいじくりながら、笑顔で従姉妹に語りかける。
      「どうかな。写ってるといいね」
      従姉妹に笑いかけられ、霞さんもにっこりと微笑み返す。
      その後の記憶が、ないのだという。
      次に思いだせるのは、自宅へ続く細狭い路地を歩く自分だった。気がつくといつのまにか霞さんはおしっこを漏らしていたようで、下着が冷たく濡れていた。
      とたんに怖くなってわんわん泣きだし、従姉妹に何があったのか尋ねてみた。
      しかし従姉妹は「分かんない」と答えるばかりで、結局原因は何も分からなかった。

      翌朝、霞さんは目覚めると、なぜだか無性にまたあの洞窟に行きたくなった。
      理由は自分でもよく分からない。だが、あの洞窟にもう一度入ってみたくて堪らなかった。隣に寝ている従姉妹をさっそく揺さぶり起こし、「もう一回行 こうよ」とせっつく。
      ところが霞さんの提案に従姉妹はひどく憤慨し、「あんなところにはもう行かない!」と即答で拒絶された。「どうして?」と尋ねても、従姉妹は「つまんないからやだ!」 などと言うばかりで、まるで取り合おうとしない。
      さすがに独りで洞窟に行く勇気はなかったので、霞さんはやむなく諦めたのだという。
      その日から、従姉妹の態度がなんだかそわそわと落ち着きのないものになった。霞さんが話しかけてもどことなくうわの空で、心ここにあらずという感じだった。
      「怒ってるの?」と霞さんが尋ねると、従姉妹は「怒ってないよ」と微笑み返してくれたが、その笑顔は痛々しいほどに弱々しく、霞さんの心をかえって寂しいものにさせた。
      それから数日後。 従姉妹が島から帰ってしまい、霞さんは再び独りきりに なってしまった。
      従姉妹との一件以降、なんとなく胸中にもやもやしたものを抱えこんでしまった霞さんは、それからはお化けの話題にもあまり興味を示さなくなってしまったという。

      従姉妹の帰宅からさらにしばらく経ち、夏休みがもうそろそろ終わる頃だった。
      お昼過ぎ。写真屋さんの現像袋を手に、お母さんが帰ってきた。
      ひと夏かかってフィルムを使いきったインスタントカメラを現像してもらったのだという。
      現像された写真は花火大会やお祭り、子供会の行事などの様子を収めたものが、たくさん写されているはずだった。わくわくしながらさっそく写真を眺め始める。
      束になった写真をふたりで一枚一枚捲っていきながら、夏の思い出話に花を咲かせる。 と、その中に一枚、ふいに奇妙な写真が現れた。
      手にとって凝視してみると、黒い下地を背景に、何か白いもやのようなものが映ってる。
      首を傾げながら写真を眺めているうちに、ようやく 「ああ」と思いだした。
      おそらく従姉妹とふたりで洞窟へ入った時に撮った写真である。
      そんなこともあったな、と思いつつ、何が写っているのだろうと、再び写真に目を凝らす。
      とたんにテーブルの向かい側から写真を見ていたお母さんが「きゃっ!」と悲鳴を上げた。
      霞さんも驚いて「どうしたの?」と尋ねると、「顔ッ!」とお母さんが叫ん で、霞さんの手にしていた写真をくるんと逆さに回転させた。
      向き直された写真には、凄まじい形相で嗤う女の顔がでかでかと写されていた。
      霞さんが「ひっ!」と叫んで写真を手から放そうとした、その瞬間である。
      写真の中の女が、霞さんに向かってさらに口元を歪ませ、げたげたと唇を動かした。
      印画紙の中で嗤うその女は、白い綿帽子を被った花嫁だったという。
      花嫁に嗤いかけられたのとほぼ同時に、霞さんはそのまま昏倒してしまった。

      それからまもなく、 とり乱したお母さんに頬を叩かれ、霞さんは意識をとり戻した。
      心配したお母さんが病院へ連れていくと言いだしたので、どうにかのろのろと立ち上がる。
      片膝をついて中腰になった時、テーブルに置かれた写真が再び目に留まった。
      花嫁が写っていた写真は、いつのまにか墨で塗り潰したかのような黒一色に変わっていた。ぼんやりした頭でお母さんに尋ねてみると、お母さんもとたんに顔色を変えた。
      あとはいくら写真のことを尋ねても、お母さんは何も答えてくれなかったという。
      病院の検査では問題なしと診断されたにもかかわらず、その晩、霞さんは高熱をだした。熱は二週間以上さがらず、最後は本土の総合病院へ入院すること になったのだという。

    連結


      だからわたし、花嫁に祟られるのは、これで二度目なんです――。
      霞さんが全てを語り終えるまで、私はあえて一切、口を挟まずにいた。
      否。正確には"挟めずにいた"のである。
      霞さんの昔語りを聞くうち、私の頭中には冷たく恐ろしい予感がひしひしと芽生えていた。
      従姉妹と過ごした目眩く夏の日々の思い出。島での生活。夜ごとふたりで交わした怖い話。
      そして、お化けが出るという洞窟の探検。
      話を全て聞き終えた今、その予感は全身が凍りつくほどの絶対的な確信に変わっていた。
      間違いない。
      私は昔、この話の片割れを聞いた記憶がある。
      パンドラの箱を開くような境地で、恐る恐る霞さんに尋ねてみる。
      「今の話に出てくる従姉妹って――もしかして、椚木千草という娘ではありませんか?」
      私の投げかけた唐突なひと言に、霞さんは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
      それから一拍置いたのち、幾分当惑した様子で彼女は答えたのである。
      「え? はい。そうですけど...... どうしてちーちゃんのこと、知ってるんですか?」
      やはりそうだった。何もかも、もう全て終わったものだと思っていたのに。
      また――繋がってしまった。
      記憶の奥底に沈んでいた五年前の忌まわしい出来事が、次々と意識の水面へ浮上し始める。気がつくと、座卓の上で組んだ手の中に冷たい汗が滲んでいた。
      「個人情報にも関わる問題になりますので、詳細まではお答えすることができないのですが、でもだいぶ前、千草さんから仕事の相談を引き受けたことがあるんです」
      「そうなんですか......。 じゃあ、もう本当にかなり前のお話になりますよね?」
      ちーちゃん、亡くなってしまったから。
      藍色の瞳をふっと陰らせ、霞さんはぽつりと寂しそうにつぶやいた。
      振り返ればいつのまにか、千草の顔や名前すらも思いだすことがなくなっていた。
      そんな千草の顔が、声が、姿が。霞さんの昔話を糧に、再び脳裏にまざまざと蘇る。
      「わたし、旧姓は立花って言うんです。ちーちゃんは、わたしの父の妹の娘なんですね」
      知っている。 千草の――表向きの――母親は、椚木昭代である。
      昭代からの連絡はあの後、近況を書き綴った一通の手紙を受け取ったのを最後に一切ない。私としてはもう、遠い過去に終わった案件である。軽はずみに関係を継続するのも憚られた。ゆえに手紙の返信を打ち止めとして、こちらから新たに連絡することもなかった。
      あれ以来、何も便りがないということは、おそらく平穏な暮らしを続けているのだと思う。 昭代は千草の娘・美月とふたりで、幸せに暮らしているはずである。
      私としては、是が非でもそのように思いたかった。
      「それで、ちょっと見ていただきたいんですけど、いいですか?」
      霞さんの発したひと声に、私の意識は再び目の前の現実へと引き戻される。左手の人差し指で自分の瞳を指し示し、霞さんは私に向かってわずかに身を 乗りだした。
      「もうお気づきかもしれませんけど、わたしの目、少し青みがかっているでしょう?」
      頭上に灯る蛍光灯の光を浴びて、濃紺の瞳が鮮やかな藍色にはっきりと輝く。
      「これ、熱が引いてから少しずつ色が変わっちゃったんです。お医者さんに診てもらっても原因は不明。緑内障やワールデンブルグ症候群でもありません。 ちなみに視力自体に異常はないんですよ。わたし、どっちかというと目はいい ほうなんです」
      霞さんは笑顔で目の由来を説明したが、私としては肌身がうそ寒くなるような報告だった。
      目の前に供されたコーヒーに軽く口をつけながら、霞さんがさらに話を続ける。
      「写真。確かに最初は怖い顔をした花嫁が写ってたんです。でも、もう一度見てみたら何も写ってなくて。熱が下がって退院してから、改めて確認してみようと思ったんですけどね。どうやら母が捨てるか隠すかしたみたいで、写真は あれ以来、一度も見ていないんです」
      だから今となってはもう、確認しようがないのだという。
      「わたしの見間違いだったと言えば、確かにそれまでの話です。でもあの時、 写真の異変に最初に気づいたのは母だったんですよ。 退院してから写真のことを訊いても『知らない』の一点張りで、ちょっと様子もおかしかったですし」
      下唇に人差し指の背を軽く当てながら、霞さんは眉間に小さく皺を寄せた。
      「小さい頃のことだから、記憶が曖昧な部分もあるかもしれませんけどね。でも、わたしが覚えている限りでは、大体こんな流れだったんです。だからわたし、この目はもしかしたら花嫁の幽霊の祟りなのかもしれないなって。 子供ながらになんとなく思ったんですよね」
      全体の流れと結果を繋ぎ合わせれば、霞さんが祟りと疑うのも無理からぬ話ではある。 「こういうのってやっぱり、祟りなんでしょうか?」
      霞さんの問いかけに対し、私は思わず返答に窮する。
      なんともとんでもない話が飛びだしてしまったものだと、内心ひやひやさせられていた。
      話のお題目が海上家と同じ〝花嫁"というのもまた、いかにも具合の悪いものだった。
      確かに祟りと断言してしまえば、これはそれなりにすっきりと腑に落ちる話ではあるのだ。ましてやこの話には千草まで介在している。信憑性に関して は、ほとんど折り紙つきである。なんでもないことだと一蹴することのほう が、私にはむしろ難しいくらいだった。
      ただその半面、今日というこの場の、この相談の流れの中においては、積極的に肯定するわけにはいかない話でもあった。
      私が今日、霞さんの訪問を快く承諾したのは、ひとえに彼女を安心させるためである。
      祟りなど気にすることはない。気持ちを楽にして毎日を気楽に過ごすよう心がげてほしい。
      あくまでも世間感覚に即した助言を与え、不安な毎日を過ごす霞さんの気持 ちを少しでもほぐせればと思ったがゆえである。
      そこへこうした昔の祟り話。それも花嫁が登場するような祟り話が唐突に飛びだしたのは、まさに想定外のアクシデントだった。生半な返答をすれば霞さんの気持ちをほぐすどころか、祟りというものに関して、かえって余計な概念をも与えかねない。
      どうにか無難にやり過ごすべく、慎重に言葉を選び回答を始める。
      「祟りって、実証するのが実は非常に難しいものなんですよ」
      「拝み屋さんでも、ですか?」
      きょとんとした顔で、霞さんが私に尋ねる。
      「拝み屋だからこそ、ですかね。たとえばです。誰かが自宅の古い庭木を伐採したとします。 その次の日、その家族が交通事故に遭いました。 これらのふたつは本来、なんの因果関係もないものなんですが、 庭木を伐採した本人はこう思うんです。『自分が庭木を伐採したから、家族が交通事故に遭った。これはきっと古い庭木の祟りに違いない』と」
      「そういうの、よく聞く話ですよね」
      「まあ、ありがちな話です。うちにもこういう切り口での相談はたくさんあります」
      さらに講釈を進める。
      「で、ここで初めて『祟り』という概念ができあがるんですが、できあがった だけなんです。因果関係を実証するものなど、実際は何もないんですよね。あくまでも、当事者自身の解釈。もっと乱暴に言えば思いこみです」
      「なるほど」
      「今度は仮に『祟り』が本当にあったものだとしましょう。伐採された古い庭 木が荒ぶって、家族を事故に遭わせた、という流れです。そんなこともまあ、実際はあるのかもしれません。ただこれも最初の解釈と全く同じで、『本当にあった』という実証はできないんですね」
      「できないんですか?」
      「まあ、庭木自身が「あの交通事故は俺の仕業だ』とか言わない限りはね」
      切り株状になった庭木が喋る姿でも想像したのか、霞さんが鼻を押さえてくすりと笑った。
      「でも、この両方には共通点もありますよね。 すなわち 『古い庭木を伐採した』という事実、次に『家族が事故に遭った』という事実です。祟りが本当に あったにせよ、なかったにせよ、起こした事実と起こった事実自体に変わりは ありません。ここまではよろしいですか?」
      無言で聞きいっていた霞さんは、「はい」とうなずいた。
      「では、次にこれです。 祟りは本当にあったのですが、当事者はそれに一切気 づかなかった。 この場合、結果はどうなります?」
      「同じ、ですか? 庭木を切ったっていう事実と、家族が事故に遭ったっていう事実」
      「この場合、さっきの『祟りが本当はあった・なかった』とひとつだけ違う点 があるんです。 庭木を伐採した当事者は、庭木に祟られたなんて毛筋ほども 思っていません。だから事故に遭った家族の心配こそすれ、それを庭木の伐採と結びつけることなんかしないんです」
      「ああ、なるほど。うん、何をおっしゃらんとしているのか、だんだん分かってきました」
      霞さんは藍色の瞳を輝かせながら、口元をほころばせた。
      明晰である。理解も呑みこみも早くて、安堵する。
      「要するに解釈次第、 捉え方次第ということです。人というのは何か不幸なことが起きると、その原因を目に見えない因果や祟り、あるいは運勢などに求めてしまうことがままあります。 でもどんな解釈をしようと、起きてしまったことは起きてしまったこと。 結果はもう決して変えることができません。肝心なのは、そこから先をどう生きていくかなんです」
      仕事場の一角に設えた祭壇を霞さんに指し示す。
      「加持祈禱が有効であり、有意義であるのは、本当に祟りがあったにせよ、なかったにせよ、拝まれた当事者自身が「これで祟りは収まったんだ』と思う気持ちがある場合のみなんです。 結局は自分自身の心の有り様自体が肝心なんですね」
      「確かにそうですよね。お祓いを受けても、その本人が『よくなるわけなんかない』なんて思っていたら、お祓いが効いてもその人の中で祟りは継続し続けるってことですもんね」
      「祟りや因果に不幸の原因を求めるなら、その解消までを視野に含めて捉えるべきなんです。『自分は祟られているから不幸なんだ』だけでは、ただ単に自分の不幸を正当化するための言いわけにしかなりません。 それではよろしくないんです。私もこんな仕事をしていますが、祟りというものは全般的に扱い方が難しいものなんですよ。何かよほどの確信でもない限り、そんなややこしいものは持ちださないほうがいいんです」
      頭を振りつつ話し終えると、霞さんは得心したかのような顔で何度もうなずいた。
      「なるほど。なんだかすごく、すっとしました。でもそう考えると、祟りってなんと言うか、別の意味で怖いものですね。わたし、あの家に嫁いでからずっと『自分は祟られてる』って考えていたから、気持ちがとても楽になりました」
      「それは何よりです。 子供の頃の話だって同じですよ。祟りは本当にあったか もしれないし、なかったかもしれない。でもね、花嫁の幽霊が『お前を祟る』 と宣言したわけでもなければ、あとになってわざわざ『お前を祟ってやったよ』なんて報告にきたわけでもないでしょう? だったらいいじゃないです か。その青い目は〝花嫁の祟りではなかった"ということで」
      これに関しては私個人の希望でもあった。 藍色に染まった霞さんの目の原因が、幼い頃の花嫁の祟り"では、あまりにも悲惨ではないかと思ったのだ。
      「ですね。 子供の頃の怖くて不思議な思い出、ということにしておきますね」
      瞳に藍色の輝きを仄かに滲ませながら、霞さんがゆったりと笑んだ。
      「でも、こんなわたしが花嫁の祟りがある家に嫁いだのって、考えてみれば変な話ですよね。もうずっと忘れてたのに、あの夢を見るようになってから、二十年ぶりに思いだしちゃった。わたし、よっぽど疲れているんでしょうね」
      「確かに妙な縁ではありますね。しかし先日もお話ししたとおり、海上家のあれも違います。 祟りなんかじゃありませんよ。どうか違うと思ってください」そうなのだ。本題は過去の"花嫁ではない。今の"花嫁なのである。 家の冥さの件に関してはこの際、置いておくことにした。 まずは霞さん自身の強迫観念を払拭すること。 それこそが要であると私は判じた。
      とりあえず第一関門はどうにか乗りきったと思い、ほっと胸をなでおろす。
      訪問時、霞さんに差しだしたコーヒーカップに視線をやると、中身がもう空になっていた。代わりを作ろうとしたが、ポットはがすがすと咳きこむばかりで、こちらも空になっていた。
      霞さんに断り、一旦中座する。
      数分後。 湯の入ったポットを片手に仕事場へ戻り、 座卓の定位置へ座り直す。
      卓上に何気なく目を向けると、霞さんの目の前に空っぽになったお菓子の包み紙が数個、きちんと折り畳まれて置かれていた。
      私が退室している間、お茶受けに出した菓子盆に、どうやら霞さんが手を伸ばしたらしい。私の視線に気づいたらしく、霞さんは心持ちばつが悪そうな顔 をして居住まいを正した。
      時計を見ればすでに正午を大きく回っていた。腹が減るのも仕方のない話だと思う。
      霞さんの昔語りに加え、私も長々と語っていた。気づけば自分で思っていたよりはるかに時間が経っていたのである。
      「お腹減ってませんか? もしよかったらどうぞ」
      菓子盆から小袋に包装されたクッキーなどを適当にみつくろい、霞さんの前に差しだす。
      「あ、すみません。いただきます......」
      わずかに頬を染め、ぺこりと頭をさげる霞さんを見て、なんともいじましい気持ちになる。
      そもそも来客用に置いてある菓子なので、お客さんがいくら手を出そうと何も問題はない。別に恥じ入るようなことをしたわけでもなし。 何もそんなに恥じらわなくとも、と思う。
      新しく淹れ直したコーヒーを飲みながら、霞さんは私の供したお菓子をつつ ましく食んだ。
      「ところで、ずっと気になっていたんですけど、海上家の祟りについて、霞さんのご実家はどの程度までご存じなんですか?」
      私もお菓子をつまみながら、霞さんに尋ねる。
      「実家の両親には一切、このことを話していないんです」
      霞さんは即答した。
      「それはどうしてですか?」
      「両親に心配かけたくないから。 まあ、それもあるんですけどね」
      霞さんの顔色が、また少し陰る。
      「わたしは結婚前に、夫から花嫁の祟りにまつわる話を聞かされていますよね? 海上家の事情を全部呑みこんだうえで、わたしは夫と一緒になっているんです。そもそも、夫自身は何度も結婚に反対してたんです。 それを強引に押し切るような形で一緒になったんですから、全部、自分の身から出た錆だと 思っています」
      だからわたし、実家には甘えないようにしたいんです。
      霞さんは真顔で答えた。
      「それに」
      またぞろ海上家の男たちの顔が脳裏に浮かび、少々うんざりする。
      「親に話したら大騒ぎになるのは目に見えています。 うちの両親、こういうことに関しては割り合い理解があるんですね。わたしがこの話をすれば、きっと信じてくれるとは思います。でもそれはこの場合、全くの逆効果なんですよ。〝嫁いだ花嫁がかならず死ぬ”なんて家にわたしがもらわれたのを知ったら、両親はわたしに対してじゃなく、海上家の家族に対して強く抗議すると思います」
      内心、結構なことではないかと思ったが、彼女の胸中を漠然と理解することもできたので、余計な口は挟まないことにした。
      霞さんはさらに続ける。
      「最悪の場合、親から離婚を迫られるようなことにもなりかねないんです。確 かにわたしは、花嫁の祟りも、海上家の家風も、あの人形も大嫌いです。でも、それと結婚生活そのものはまた別です。 離婚することだけは絶対に嫌なんです。わたしは夫と離れたくありません」
      それ以外の理由などないはずだから、霞さんの訴えは痛いほど感得することだった。
      彼女は夫を心から愛している。 大切に思っている。 片時も離れたくない。
      それはなんの不純もない、ひとりの人として、妻として極めて当たり前の感情である。
      それからつかのま、会話がふっと途切れた。
      「よかったら御守りでも作りましょうか」と提案すると、霞さんは「ぜひ」と うなずいた。
      昼を過ぎて、仕事場の窓から射しこむ日差しもずいぶん明るくなっていた。私が御守りを作る傍ら、霞さんは仕事場の隅に置かれた金魚の水槽を眺めていた。
      「金魚、綺麗ですね」
      ほぐれた面差しで水の中を泳ぐ金魚たちを目で追いながら、霞さんがつぶやいた。
      「お好きですか? 金魚」
      「実家の父が好きで、何本も水槽を並べて飼っているんです。あ、わたし、これが好きです。ほら、この赤と青と黒が混じった、丸い金魚。確か横文字みたいな名前の金魚でしたよね?キャ、なんとかっていう」
      「キャリコです。 英語で更紗とかまだらっていう意味なんです」
      「そうそう。そういう名前でした。 ......わたし、実家にはもう、しばらく帰ってないんです。金魚見てたら、なんだかちょっと帰りたくなっちゃいました。 帰りたいな、実家・・・・・・」
      「きっといい息抜きになると思いますよ。 こんな状況なんですし、あまり自分に厳しくする必要もないでしょう。少し骨休めだと思って、ご実家に顔を出さ れてみてはいかがです?」
      「そうですね。そう言ってもらえるなら、無理しないで帰ってみようかな」
      どことなくほっとしたような顔で、霞さんはふわりと微笑んだ。

      それからできあがった御守りを手渡し、 安全祈願の祝詞と魔祓いの呪文を霞 さんにあげた。
      帰りしな、仕事場を出ていく霞さんの足取りは少しながらも軽くなったように見受けられ、ほんのわずかだが、肩の荷がおりたように感じられた。
      先日の海上家訪問の帰宅時、霞さんにそうしてもらったように、私も霞さんの車が門口を出ていくまで、仕事部屋の戸口から黙って霞さんを見送った。

    花嫁


      くびりころす――。
      霞さんが私の仕事場を訪れてから、四日後の深夜だった。
      「...............ころころりたいははは......でもわたしかがいますほほほ・・・・・・」
      自室の布団で寝入っていた私は、耳元で囁く不可解な声に目を覚ました。
      若い女の声だった。それも、大勢の女の声である。
      だが、声は私の耳のすぐそばから一斉に、それも同じ位置から聞こえてくる。
      声は、右半身を下にして横たわる私の耳の中に、直接吹きこまれてくるようだった。
      「なりものまくしたかな・・・・・ほほほころわらって......せられはははりきましたよろす」
      まるで宴席の歓談を録音したような声だった。ひとつひとつの言葉が個として認識できず、渾然一体となった大きな音のうねりと化している。そんな印象の声である。
      しかし声は一ヶ所から、私の耳に貼りつくようにして聞こえてくる。声と一緒に生ぬるい吐息が耳の中に吹きこまれてくるのも、ありありと感じた。
      だから、声の主はひとりである。だがその感触は、大勢の放つそれだった。声の主が何者なのかは分からない。
      ただ、この世の者でないことだけは、すぐに察することができた。
      ぼんやりとしていた意識が、しだいにぴんと張り詰めていく。
      「だったあれり............こはははせんよちゃんま...............ほほほお」
      状況を鑑みれば、何者かが私の傍らに座し、耳元に唇を寄せ、言葉を紡いでいるのである。斯様に理解することができたし、厭でも了解せざるを得なかった。
      「......とととてるんですか......はははゆみ......りこそんなふふはくび」
      声がさらに耳元へ近づく。何かひんやりとしたものがぴたりと当たって、耳の穴を塞いだ。
      反射的に飛びあがろうと試みたが、身体が石のように固まり、動かすことが できなかった。横倒しになった額と首筋から、ふつふつと冷たい汗が玉となっ て噴き始める。
      「ほんとあははですたかったりすぐまゆみ・・・・・・ほほほそうだかったしますわた ほほほほほ」
      声が大きくなる。否――大きくなったのではない。今度は頭の中で声が聞こえてくるのだ。
      頭蓋の内側で女たちの声がざわざわと、渦を巻いてさえずり始める。
      髄膜をぴりぴりと震わすような不快感に、全身の肌からぞわりと一斉に、粟粒が浮きだす。
      耳の中にも異変が起きた。耳穴に吸いついた唇がもそもそと動くたび、内側の肉や鼓膜が波打つように蠕動する。まるで耳の中身が外へとせりだし、反転 するかのような感触だった。
      痛みはなかった。だが、その感触が大層気持ち悪く、全身にひどい悪寒が走った。
      「すぐにあのそうといったゆみほほほりこ・・・・・・あははしうふふ......じゃないだの」
      そのまま飛び起き、逃げだしたかった。だが身体は相変わらず、びくとも動く気配がない。悲鳴をあげるべく口を開こうとしたが、口すら開かず、喉にも力が入らなかった。
      ただ、目だけはどうにか開くことができそうだった。がちりと凍りついた身体とは異なり、閉ざしていた目蓋だけは、ひくひくとわずかに震わすことができたのだ。
      おそらく目蓋を開けば、声の主が私のすぐ目と鼻の先にいるはずである。
      まだ視ぬ異形の姿に心底慄き、身体の内が、すっと重力を失う。気づくと涙も流れていた。
      寸秒躊躇ったのち、それでもどうにか意を決し、 ゆるゆると目蓋をこじ開ける。
      目の前には、無人の自室があるばかり。
      明かりの消えた暗い室内には、声の主はおろか、人影すらも見当たらなかった。
      だが、それでも声は絶え間なく聞こえ続けてくる。 耳には唇の感触もしっかりとある。
      どうすることもできず、暗がりの前方へ向かって、きょろきょろと視線を動かしてみる。
      いくらのまも置かず、眼球の動きがぴたりと止まった。
      私の横たわる前方の壁際には、ビデオラックに載せた大型テレビが置いてある。
      そのビデオラックのガラス扉に私自身の姿と、何か白いものが映りこんでいた。
      目を凝らした瞬間、視界に認めたおぞましい光景に背筋がぞっと凍りつく。
      白無垢を着た花嫁が、私のすぐ背後にいた。
      花嫁は身を屈め、布団に横たわる私の左耳に顔をうずめて前後にもやもやと揺れている。
      「たんですかのようですがすまゆはははだなすほほほほほほほほほほ」
      判別不能な言葉の洪水に合わせて、花嫁の身体はかたかたと小刻みに震えていた。
      耳に貼りつき、うつむいた顔は、純白の綿帽子に隠れてほとんど確認することができない。 だが、わずかに覗くその面貌には白粉が薄白く、万遍なく塗布され、紅を差した朱色の唇がもそもそと動いているのが、ぼんやりとだが見てとれた。
      「りこやれそらられまゆほほほはははー」
      ガラスの中の花嫁が、ふいにふっと顔をあげた。
      暗闇のガラス越しに、私と花嫁の目が交錯する。
      気が遠のくほどに寒々とした笑みを満面に浮かべた花嫁の目が、私をすっと見据えていた。
      「くびりころす」
      射竦めるような眼差しで、しかし口元には大きな笑みを浮かべながら花嫁は言った。
      「まゆみ、くびりころす」
      背骨に高圧電流を流しこまれたような衝撃を感じ、とたんに身体が自由になった。
      そのまま悲鳴とともに布団から跳ね起きる。
      すぐさま電気をつけて背後を振り返る。しかし、花嫁の姿はもうどこにもなかった。
      狼狽しながら、枕元に置いた携帯電話をふんだくるようにして掴みあげる。
      当時、交際していた妻の安否を確認するためである。
      まゆみ、くびりころす。
      花嫁が最後に放ったひと言に、私は生きた心地がしなくなっていた。
      妻の名は、真弓という。
      考えたくもない事態と顚末が、頭の中で次々と再生されて渦巻いた。
      ぶるぶると震える指でボタンを手繰り、真弓の番号を探り当てる。たかだか数秒の時間が、私の中では十年にも百年にも感じられた。
      どうにか真弓の携帯番号を選択し、発信ボタンに指をかける。
      瞬間、見知らぬ携帯番号から着信が入り、思わず口から悲鳴が漏れた。「うるせえ!」と怒号を発し、すかさず着信を遮断する。
      再び真弓の番号を表示しようとしていた矢先、またぞろ電話が激しく鳴っ た。先刻と同じ、やはり見知らぬ携帯番号である。
      同じく遮断しようとしたつもりが、手元を誤りそのまま電話が繋がってしまう。
      瞬間、受話口から弾ける甲高い叫び声が、手にした電話をびりびりと震わせた。
      反射的に電話を耳に当てる。とたんに耳の中から銀紙を揉みしだくような不快な音がたち、叫び声が小さくくぐもった。 先ほどまで花嫁に囁かれ続けていた耳である。
      ――耳がほとんど、聞こえなくなっていた。
      そのまま立ち眩みを起こしそうになるのを必死で堪え、反対側の耳へ電話を押し当てる。
      「大変です、 すぐ来てください! 大変なんです!」
      声の主は雅文さんだった。 完全に動転した様子で、嗚咽混じりの悲痛な叫びをあげている。しかし、私が驚嘆したのは雅文さんの声ではなく、その背後からかまびすしく聞こえてくる、もうひとつの声のほうだった。
      それは若い女が放つ、凄まじい大絶叫だった。
      声は雅文さんの叫びすらも遮り、受話口のスピーカーいっぱいにぎんぎんと木霊していた。
      「一体、どうなっているんです?」
      ばくばくと高鳴る胸を片手で押さえながら、雅文さんに問う。
      「霞が大変なんです! お願いですから、すぐ来てくださいっ!」
      彼の説明はまるで要領を得なかった。 ただ「霞」という名前を聞いて、電話口の向こうで泣いているのが霞さんだと察することはできた。
      これまでの人生で一度も聞いたこともないような奇声をあげて、霞さんは泣き叫んでいた。まるで地獄の底からほとばしる悪鬼の猛りのような、それは身 の毛のよだつ声色だった。
      「状況がまったく分からないです。まずは少し落ち着いてください。簡潔にで結構ですから、くわしい現状を教えてください」
      噛んで含めるように言い聞かせ、さらに向こうの言葉を待つ。
      「......あの花嫁の人形が今、霞に抱きついているんです」
      ふうふうと荒い吐息を弾ませながら、雅文さんは震える声で信じ難いことを口走った。

      つい十分ほど前。自宅の寝室で熟睡している時だったという。
      暗闇の中、突如として巻きあがった凄まじい金切り声に、雅文さんは布団から飛び起きた。
      慌てて部屋の電気をつけたとたん、雅文さんの口からも悲鳴があがる。
      声の主は、隣で寝ていた霞さんだった。
      あの干乾びた花嫁が霞さんの身体に覆い被さり、がっしり抱きついていたのだという。
      霞さんは、顔じゅうを涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、壊れたように泣き叫んでいた。
      一方、花嫁は仰向けになった霞さんの胸元に顔を乗せ、白無垢に包まれた両 腕を霞さんの背中にぐるりと回して、固く閉じ結んでいた。
      騒ぎを聞きつけ、駆けつけてきた忠文氏と克己氏も、その光景を見るなり悲鳴をあげた。
      すっかり色を失いながらも、ただちに三人で霞さんの身体から花嫁を剥がしにかかる。
      ところがどう頑張っても、花嫁は霞さんの身体から剥がれようとしないのだという。
      「両腕がですね、霞の背中に回ってがっしり固まっているんですよ。指もです一本一本固く食いこんでいて、とても剥がせないんです。お願いです、霞を救けてください!」 あんたらがやったんじゃないのかッ!
      思わず怒鳴りつけそうになったが、 電話の向こうで雅文さんは嗚咽をあげて泣いていた。
      電話口で雅文さんの話を聞きながら、初めは海上家の男たちによる報復だと考えていた。
      要するにこうである。
      先週、霞さんが私の仕事場を訪ねたことが、 なんらかの形で発覚する運びとなった。
      先日の私の提案を面白く思っていないであろう海上家の面々は、当然、霞さ んの身勝手な行動が気に食わない。
      そこで霞さんに灸をすえるべく、あの〝花嫁さん"を持ちだしたのだ。
      ――お前が勝手なことをするから見ろ。 花嫁さんがお怒りになったんだ。
      こんな台詞を吐きだす男たちの姿が、電話口で話を聞きながら何度も目に浮かんだ。
      だが冷静に考えているうち、そんなはずは絶対にないと思い至ることになった。
      仮にこれが海上家の男たちの手による自作自演だとするなら、わざわざ私に電話をよこす必要などないのである。
      霞さんへの折檻のついでに、駄目押しで私への警告かとも思ったが、それならばわざわざ「今すぐに来てください。救けてください!」などと、言うはずもない。どれだけ考えてもこの一連の流れは、まるで理に適わない展開だった。
      電話口の向こうでは相変わらず、霞さんが大声をあげて泣き叫んでいる。
      雅文さんの言葉どおりであるなら、今、霞さんの身体にはあの花嫁のミイラが抱きついて離れない状態にあるからだ。
      この世のものとは思えないおぞましい光景が、頭の中で生々しく映像化される。とたんに粟立った二の腕の皮膚がひきつけを起こしたかのようにびくびくと激しく痙攣を始めた。
      人形が――いや、ミイラか――が勝手に歩きだして、霞さんに抱きついたとでも言うのか。
      馬鹿馬鹿しい。即座に頭で割りきろうする。だが、それを絶対にありえないことだと払拭できるだけの判断材料も、私は持ち合わせていなかった。
      それどころか逆に、その可能性を補強する判断材料ばかりを私は大量に持ち合わせている。
      過去十数代にも及ぶ花嫁たちの死。 海上家訪問時に視た、霞さんの肩口に浮 かぶ花嫁の首。家じゅうをどっぷりと浸すように染めあげる、あの異様な冥さ。
      そしてつい先刻、私の耳を駄目にしてしまったあの忌々しい花嫁――。
      あの家ならば、何が起きても決しておかしくはない。
      あらゆる怪異が起こる可能性が、十分過ぎるほど考えられる。
      海上家とは、そのような魔性を持つ家である。
      「郷内さん。夜中遅くにこんなお願いをすることは、本当に申しわけないと思っています。 でも、僕らではダメなんです! どれだけやっても剥がれないんです!お願いします! 今すぐうちに来てください、お願いします!」
      狂い泣く霞さんの大絶叫を背に、雅文さんが再び大声を張りあげ、私に懇願する。
      しかし、私の返答はおよそ人間味に乏しい、極めて冷酷なものだった。
      「大変お気の毒ですが、とても私の手に負えるものではありません。人形が剥がれないなら消防でも呼ぶべきです。他の同業でもいいでしょう。とにかく本当に申しわけないのですが、私はもう、この件には一切関わりたくありません」
      自分でも信じられないほど流暢に、なおかつ機械的な声音で即答していた。
      はたと気づけば、髪の毛が逆立っていた。額からは冷たい汗がしとどに噴き出てもいた。
      怖いなどという感情はすでに大きく通り越し、心はほとんど無我の境地にあった。
      どのように受けとられようが構わない。だから正直に白状する。
      霞さんの安否でさえ、この時、私はどうでもいいと思ってしまった。
      それほどまでに私は、この件にこれ以上関わることが恐ろしかったのである。
      「そんなことを言わないでください、お願いします! 先日のことを気にされ ているのなら謝ります! お願いです、 霞を救けてください! お―――」
      あとはひと言も答えず、私はぶつりと通話を切るなり、そのまま着信拒否に設定した。 どうやって闘うかじゃねえ。 どうやって逃げるかだ。
      華原さんの遺戒が、まるで言い訳のように頭の中で反芻される。
      卑怯だという認識はあった。最低だという自覚もあった。
      だが、それでは心は動かなかった。
      一万分の一、あるいは十万分の一の確率。 決して踏みこんではいけない禁断の領域。
      異界へ至る、奈落の淵。
      ――祟りなんかじゃありませんよ。 どうか違うと思ってください。
      先週、霞さんに向かって得意げにのたまった講釈が、まるで戯言のように感じられた。
      それでは一体、なんだというのか。自問しても答えは何も出てこなかった。
      加えて今件には、千草の名前まで飛びだしている。それだけで、もうすでに 危険なのだ。
      理屈など関係ない。五年前、椚木の一族に勃発したあの怪異と、これは同格 のものである。あるいはそれ以上かもしれない。
      ――これ以上関わったら、もう絶対に戻って来られなくなる。
      先日の結論と、やはり結果は同じだったのである。到底、私の手に負える代物ではない。
      思いきるなり、神速の勢いで真弓の番号に発信を試みる。
      先刻、花嫁が発したあのひと言が、私の耳から離れなかった。
      真弓のことがひどく気がかりだった。 一刻でも早く、真弓の安否を確認したかった。
      耳元に電話を当て、真弓の応答をがたがたと震えながら待つ。
      無音。 受話口のスピーカーからは、呼びだしのコール音さえ聞こえてこない。
      操作を誤ったのかと苛立ち、耳元から電話を離してディスプレイに目を落とす。
      小さな液晶画面が赤と紫の二色に染まり、横縞のノイズを作った状態で固 まっていた。
      一目したとたん、弾かれたように部屋を飛びだし、仕事場へ向かった。
      祭壇から古びた銅剣を慌ただしく持ちだし、ほとんど飛びこむような勢いで車へ乗りこむ。 エンジンを掛けると生きた心地もしないまま、私は深夜の田舎道へ猛然と車を走らせ始めた。
      真弓の自宅へ向かいながら、再び通話を試みるべく電話を手に取る。
      幸い、ディスプレイは元の状態に戻っていた。しかし、相変わらず電話は通じなかった。発信しても今度は通話中を報せる電子音が鳴り響くばかりで、繋がる気配が一向にない。
      車内の時計を見ると、時刻は二時を少し回る頃だった。
      こんな時間に真弓が起きていることなど、通常ならばありえない。たった今、真弓の家で何が起きているのかと思うと、それだけで気が狂いそうになっ た。
      道中、定期的に通話も試みた。 受話口からは電子音が聞こえてきたり、なんの反応もなく無音だったり、圏外を報せるアナウンスが流れたりと、状態がまるで一定しなかった。
      それから二十分ほど走り続け、真弓の自宅のおよそ半分まで距離が近づいた頃だった。 十数度目の発信で、ようやく呼びだしを報せるコール音が受話口から聞こえた。
      五回、十回、十五回とコールを重ねたあと、突然音がぷつりと鳴りやみ、声が聞こえた。
      「......もしもし」
      真弓が出た。ちゃんと生きていた。
      寝起きのひどい掠れ声だったが、散々焦がれたひと声に安堵の吐息が大きくなった。
      ハンドルを握りながら、何か変わったことはなかったかと尋ねてみる。
      真弓は少しの間、沈黙したあと 「別に何もないよ......」と、ひどく眠たそうな声で答えた。
      「そうか......ならいいんだ。なんでもない」
      ごめん、おやすみ――。そう言って、私は電話を切った。
      通話を終えたとたん、張り詰めていた緊張がぷつりと断ち切れ、今度は凄まじい虚脱感に見舞われた。折よく近くにコンビニがあったので、車を滑りこま せて停車する。
      気がつけば口の中がからからに干あがっていた。店に入ってジュースを買う。車へ戻って喉に流しこむと、胃がちぎれそうなほど激しく痛んだ。
      きりきりと悲鳴をあげる胃の腑に顔を歪めながら、左耳に指を押し当て、具合をうかがう。
      耳は相変わらず不調のままだった。全く聞こえないわけではないが、音が小さくくぐもり、まるで水の中にどっぷりと浸かっているような感覚である。
      どうして自分が、こんな憂き目に遭わなければならないのか。
      生業だと割り切れば、確かにそれまでの話である。
      だが拝み屋とは本来、こんなことに命を懸けるような仕事ではない。家内安全に交通安全、受験合格に安産祈願。土地祓いに屋敷祓い。先祖供養にペット供養。平素はこんな地味で見栄えのしない仕事ばかり請け負っている。
      確かに時には憑きもの落としや魔祓いなどもやる。ただ、依頼内容の多くは当事者自身の思いこみや、勘違いなどから生じるものである。
      そんな依頼主たちに祟りや因縁、霊障などの不在を語り聞かせ、正気に戻してやるまでが私の仕事だ。まかり間違っても、不明確で危うい概念を増長させ るのが務めではない。
      確かに "本物"を手がける場合だって時にはある。けれども自分の身が危ういと感じればことごとく手を引いてきた。私は私にできる仕事しか、本来引き受けない主義なのである。
      ――てめえの器を考えて動けるのが、本物の拝み屋ってもんだ。
      かつて華原さんの放ったひと言が、耳元で囁くように蘇る。
      そのとおりだと思う。 今度の件も例外ではない。だから私は海上家から手を引いた。
      卑怯でも冷徹でも臆病でもなんでもいい。私は私の在るべき日常にまた帰っていくだけだ。地味で見栄えのしない日陰のような人生こそが、私の歩むべき 本来の道筋なのだ。 私は英雄の器などでは決してない。 ただのしがない田舎の拝み屋である。
      それでいい。それでいいのだ。
      吸い終えた煙草をぐしゃぐしゃと揉み消し、新しい煙草に火をつける。
      そのまま煙を吹かしていると、ふいに霞さんの笑顔が脳裏にありありと浮かび始めた。 先日、私の唱えた安全祈願と魔祓いに、「これで大丈夫ですね」と微笑んで いた霞さん。
      私の作った拙い御守りを両手でそっと包みこみ、「大事にしますね」と喜んでいた霞さん。
      大丈夫などでは全然なかったのに、笑いながら私に手を振り、帰っていった霞さん。
      私を信じて、藍色の綺麗な瞳をきらきらと輝かせて笑ってくれた、霞さん。
      とたんにありったけの大絶叫が喉から勝手に絞りだされた。声と一緒に涙もこぼれる。
      ぼろぼろ、ぼろぼろと、塩辛い涙がとめどなく溢れて止まらなくなった。
      少女のようにあどけない面差しで微笑む霞さんの顔が、頭の中で何度も何度も反復された。
      幼い頃、大きくなったらゴーストバスターズになりたいと思っていた。
      ベンクマン博士になって、ディナ・バレットを護るんだと思っていた。
      幼い頃、ゲゲゲの鬼太郎になりたかった。
      鬼太郎になって、夢子ちゃんを護るんだと思っていた。
      あの頃から、もうすでに二十年余りの月日が経つ。
      私は当時、なりたいと思っていた自分になれたのだろうか。そんなことを考え始める。
      十分ほどハンドルに額を押しつけ、ひたすら泥のように懊悩した。 気がつけば、いつのまにかはっきりと揺れ動いている自分がいた。 やるのか、やらないのか。
      その究極のはざまを何百遍も行きつ戻りつしながら、ひたすら苦悶の海に意識を沈めた。
      悩み、怯え、慄き、苦しみ、額に食いこむハンドルの固さにいよいよ苦痛を感じ始める頃、ようやく私は鉛のように重たくなった頭をのろのろと持ちあげた。
      未だ放心したまま、助手席へぼんやりと視線を向ける。
      薄暗いシートの上には小ぶりな銅剣が、駐車場の外灯に照らされて鈍い光を帯びていた。
      自宅を飛びだす際に持ちだしてきた、華原さんの形見である。
      在りし日。 華原さんはこれを携え、木の一族の眼前に乗りこみ、おそらくはあの一族の災いの元凶たる〝母様〟を屠った。多分、己の生命と引き換えに。
      最高にかっこ悪くて、最高にかっこよかった私の先輩。 偉大なる先達。
      恋さんは、これを形見だと言って私によこした。
      華原さんはもういない。 だからやるなら、今度は私ひとりでやるしかない。
      それに形見は、使うためにあるものだと思う。
      あの人に届かないまでも、せめて真似事ぐらいはさせてもらおう。
      仮にその代償が、あの人と同じ結果になるのだとしても――。
      時計を見ると、午前二時四十二分。 ここからなら、海上家まで三十分ほどで 電話をかけると、二度目のコールで雅文さんが出た。
      先刻の非礼を謝罪し、これから訪問する旨を手短に伝えると、雅文さんは快諾した。
      依頼の承諾にあたり、私はひとつだけ条件を提示した。
      あの人形の処分である。
      それも今夜じゅうに。私の見ている目の前で、確実に。
      電話口の向こうで忠文氏、 克己氏と十数秒ほど協議したのち、雅文さんはこれを了解した。
      手短に礼を述べると通話を切り、私はただちに臨戦態勢に入る。
      これでお膳立ては全て整った。
      あとは、やるかやられるかだけである。
      ようやく死地を興ずる境地に至り、迷いはもうなくなっていた。
      ギアをドライブに切り替えると、私は海上家へ向けて再び猛然と車を飛ばし始めた。

    荼毘


      滅する――。
      車が海岸線を走り抜ける頃、時刻は午前三時を少し回っていた。
      日の出にはまだほど遠く、海の色は墨のように黒々としている。道路には車も人影もなく、耳に届くのはどうどうと激しい唸りをあげる波音だけだった。
      海上家へ到着すると、玄関先から飛びだすような勢いで忠文氏が車へ駆けつけてきた。
      「こんな時間にありがとうございます。 先日は大変失礼いたしました。さあ、どうぞ!」
      矢継ぎ早に礼と謝罪と誘導をいっぺんに捲くし立て、忠文氏は足早に家の中 へ戻り始めた。銅剣を片手に、私も急いであとを追う。
      家内に一歩足を踏み入れるなり、再びあの異様な暗さが目に染みこんできた。
      それも先日よりも、格段に冥い。
      時刻が夜だからでは決してない。家の中には煌々とした明かりが隅々まで行き届いている。
      しかし、私の目には戸外の暗闇よりも、家内を浸す薄闇のほうがはるかに暗く感じられた。
      視界が利かないのではない。家内の壁も床板も天井も、はっきりと視認することはできる。
      海上家に立ちこめるこの薄闇は、言うなればサングラスのようなものである。煌々と灯る明かりの上に、陰気な闇がさらに覆い被さるようにして漂っている。
      だからこれは、自然の生みだす暗さではない。ここに至って、ようやく私は確信する。
      忠文氏に先導されるまま、霞さんのいる寝室に向かって暗い廊下をひたむ。
      廊下を歩きながら、煤のように視界を遮る薄闇を片手に持った銅剣でひと薙ぎしてみる。振った瞬間、剣筋に当たった闇の黒さがぱっと晴れ、明々とした 光が傷口のように広がった。
      たちまちぞっとなり、腰元に銅剣を引き戻す。
      やがていくらのまも置かず、廊下を進む先から霞さんのすすり泣く声が聞こえてきた。
      早足になった忠文氏のあとに続き、さらに家の奥へと進んでいく。
      ほどなくたどり着いた寝室の凄惨な光景に、私は慄然とさせられた。
      果たして雅文さんの言葉どおり、干乾びた花嫁が霞さんに未だがっしりと組みついていた。
      霞さんは布団の上で花嫁に抱きつかれたまま仰向けに横たわり、ほとんど息 も絶え絶えにか細い声ですすり泣いていた。
      もはやろくに声も出ぬほど泣き尽くしたことは、霞さんの顔を一目しただけ で了解できた。
      白目は兎のように赤く染まり、大きな目の周りも鬱血して青黒く腫れている。涙と鼻水でぐしゃぐしゃに乱れきったその顔には、恐怖の限界をとうに通り越した、疲弊と放心の色が痛々しいまでに滲み出ていた。
      傍らに身を寄せて声をかけると、散々泣き涸らしたはずの霞さんの両目から、大粒の涙が再びどっとこぼれた。それから何かを言おうとしかけたらしい が、声は言葉の意味をなさず、 「ぐうぅん...............」という苦しげな嗚咽が短く漏 れただけだった。
      「ごめんなさい。 遅くなりました。怖かったね。もう大丈夫ですから、安心してください」
      私の言葉に霞さんは「うう、うぅ」と嗚咽をあげながら、何度も小刻みにうなずいた。
      霞さんに組みついた花嫁の二の腕に手を掛ける。ぐいっと力任せに引いてみたが、花嫁は斜めにぐらりと首を傾かせただけで、やはりびくとも動こうとしなかった。
      「バールを使って引き剥がそうともしたんだが、びったり貼りついてて駄目だったんです」
      克己氏が傍らにへなへなと座りこみ、ほとんど泣きそうな顔で私に訴えた。
      「先生、この間は本当に申しわけなかったです。うちの嫁、助けてください。 お願いです」
      涙声で懇願するなり、 克己氏は私の眼前で畳の上にぴたりと額を擦りつけた。
      「郷内さんに言われたとおり、消防も呼ぼうと思ったんですけど、どうしても呼べなくて。なんとか霞を救けてください。お願いします」
      霞さんを挟んで布団の向かい側に座っていた雅文さんも頭をさげる。
      消防を呼べない理由は分かっていた。 これが人形ではなく、剥製だからだろう。
      こんな修羅場でさえも干乾びた花嫁のほうが大事か。 内心思いもしたが、すぐによした。これの処分を約束してくれたのだから、今までの流れは不問に付そうと思い直す。

      「最善を尽くします」と宣言し、私は霞さんの枕元で、ただちに魔祓いの呪文 を唱え始めた。
      別段、特別な呪文ではない。 田舎の拝み屋が日常的に用いるような、ごくありふれた呪文。民間療法というか、悪い気を祓うためのおまじないのようなものである。
      意図して手を抜いているわけではない。ましてや出し惜しみをしているわけ でもなかった。私自身もまた、田舎の拝み屋である。 それもしがない田舎の拝み屋風情なのだ。
      手持ちはせいぜい、これくらいなのである。
      呪文を唱えながら華原さんの銅剣を片手に持ち、霞さんの身体に組みつく花 嫁の腕の間へ剣先を押しこんでみる。だがやはり、花嫁の身体はびくともしなかった。
      梃子の原理で腕を浮かせられないかと考えたのだが、駄目だった。花嫁の両腕は霞さんの身体にぴったりと食いこむように貼りつき、一寸たりとも動く気配がない。
      先ほど、克己氏が「バールを使っても駄目だった」という話を別に疑ったわけではない。だが自分で実際に試してみて、改めて身の毛のよだつ思いが湧い た。
      一体、この干乾びた花嫁は、何を血迷ってこんな始末になってしまったのか。
      つい先日、仏間の奥の秘密の小部屋で花嫁を垣間見た折。その一瞬には哀れとすら思ったこの花嫁が、私の胸の内で再び禍々しく、ひたすらおぞましい存在へと回帰していた。
      両の腕に渾身の力をこめながら、花嫁の腕と霞さんの身体との間に、銅剣を食い込ませる。
      だがやはり駄目だった。どんなに力をこめても花嫁の腕はぴくりとも動こうとしない。
      そうこうしている間に、口ずさんでいた呪文もそろそろ終わりに近づき始めていた。
      呪文が終われば、あとはもう打つ手がない。徐々に気持ちが焦りの色を浮かべ始める。
      花嫁を祓うのではなく、供養する方向に方針を切り替え、経を唱えることも確かにできる。だが、その効果は果たしていかばかりのものか。確信よりも疑 念のほうが先立ってしまう。
      「違う。斬る」
      やはり無理か。浮かんだ焦りが諦めに変わろうとしかけた、その時だった。
      嗚咽をあげていた霞さんの泣き声が一瞬ぴたりと止まり、妙な言葉をつぶやいた。
      反射的に霞さんの顔を覗きこんだ瞬間、はっとなって息を呑む。
      千草が私の目を見て、笑っていた。
      瞬きをした刹那に千草の顔は消えた。目の前には再び、嗚咽をあげる霞さんの顔があった。
      詠唱していた呪文をやめ、その場にすっと立ちあがる。身体が勝手に動いた感じだった。
      霞さんにしがみつく花嫁の背をめがけ、両手で握った銅剣を高々と頭上まで 振りあげる。
      「離れないなら斬る」
      花嫁に向かって宣言した直後、組みついていた両腕から、がさりと乾いた音 がした。
      「剥がしてみてください!」
      私の放った大声に、海上家の男三人が弾かれたように動きだす。三人揃って花嫁の身体に手をかけると、花嫁はなんの抵抗もなく霞さんの身体からべらり と剥がれた。
      浮きあがった花嫁の腹を蹴りあげるようにして、すかさず霞さんが飛び起きる。そのまま雅文さんの胸に抱きつくと、霞さんは大声をあげて泣き始めた。霞さんの様子を横目に、花嫁へ視線を向ける。
      干乾びた花嫁はだらりと四肢を投げだし、布団の脇に仰向けになって横たわっていた。
      花嫁の前にひざまずき、両肩に手をかけ抱き起こしてみる。垂直に持ちあがった上半身は首こそまっすぐに座っていたが、両腕は畳の上へと力なく垂れ さがり、糸の切れた操り人形――否。まるで生身の死体のようになっていた。
      「花嫁さん、ほんとは身体がかちかちだから、こんなになるわけないんだがね……」
      花嫁を見おろしながら、 克己氏が蒼ざめた顔でつぶやく。
      言われずとも承知していたことだったが、言葉にされると改めてぞっとさせられた。
      「すぐにやります。 準備はできていますか?」
      「庭に準備しております。 すぐに始められます」
      答えるなり、克己氏が花嫁の両脚を持ちあげた。
      先刻、電話で荼毘の準備を頼んでおいたのだ。下手な場所に投棄したりすれば、事である。 悉皆焼き尽くすのが最善だと私は考えていた。
      霞さんのほうに再び目を向けると、雅文さんに縋りついて泣き続けていた。雅文さんには霞さんを任せることにし、私と克己氏、忠文氏の三人で始める ことにした。
      花嫁の上半身を私が、下半身を克己氏が抱える形で、ふたりで干乾びた花嫁を運びながら、外へと向かって冥い廊下を戻り始める。
      花嫁を運び歩くさなか、私たちの歩調に合わせて、干乾びた身体がぐらぐらと揺れ動いた。 腕に伝わる感触は、ほとんど最前まで生きていた人間のそれで ある。
      加えて時折、白無垢に包まれた胸元がわずかにびくんびくんと上下することすらあった。皺だらけになって萎んだ顔には生気こそ感じられなかったが、 生命の輝きが放つ存在感とはまた別種の、禍々しい威圧感をその全身からあり ありと醸しだしていた。
      言うなればそれは、魔性である。
      廊下の頭上から降り注ぐ白熱球の仄白い光芒を浴びるたび、ガラス玉でできた丸い両目がぎらぎらと凶悪な色を浮かべて輝く。 わずかに捲れあがった上唇は、もはや微笑と呼ぶにはほど遠く、まるで標的を威嚇するけだもののそれに 見えた。
      花嫁は、はっきりと嗤っていた。
      先日、秘密の小部屋で垣間見た時とはもう、まるっきり顔が変わっていた。
      ぴりぴりと、背筋に微弱電流を流しこまれるような感覚に心底怖じ気を揺さぶられながら、私はいつのまにかわなわなと震え始めていた両手で花嫁を懸命 に運び続けた。
      玄関を出ると、戸外は幸いにもまだ薄暗いままだった。朝陽の不在に安堵の 吐息を漏らす。人家の庭先で〝人間"を焼くのだから、日が昇る前に決着をつけておきたかった。 「裏庭に薪を組んであります」
      克己氏の先導で屋敷の正面から横手へと回りこみ、裏庭を目指す。ぐんぐん 進んでいくと、やがて一分も経たないうちに屋敷の裏側へ到達した。その時、ようやく気がついたのである。
      家の長さが違う――。 思わず背筋がぶるりと震えた。
      先日、海上家を初めて来訪した折。またつい先ほど、夫婦の寝室へ向かった際。家の中は奥へと向かって、まるでトンネルのごとく果てのないほど長かっ たはずだ。
      それなのに今、私は玄関口から迂回して、易々と屋敷の裏手へ回りこんでしまっている。
      どう考えても、おかしいのだった。
      「さっさと焼いちまいましょう」
      克己氏のひと言にはっとなって我へと返り、ただちに荼毘の準備にとりかかる。
      裏庭の中央には、廃材と思しき古びた板切れや角材などが、二メートルほど の横幅でこんもりと積みあげられていた。 克己氏は「有り合わせで申しわけないね」と頭をさげたが、十分だった。 これで完全に焼き尽くすことができる。
      克己氏とふたりで、焚き木の上に花嫁を仰向けにして横たえる。そこへすかさず忠文氏が手にしたポリタンクから花嫁の身体へ、ざぶざぶとしとどに灯油 を浴びせかけた。
      「危ねえから、さがっててください」
      克己氏が筒状に丸めた新聞紙に火をつけ、焚き木の上に放り投げる。
      瞬間、目の前に巨大な火柱が立ち昇り、花嫁はたちまちのうちに紅蓮の炎に包みこまれた。純白の白無垢が茶色と黒のまだら模様にみるみる染まり、業火の中でばちばちと音を立てて爆ぜ始める。
      「・・・・・・この際だから正直に話してください。今までにもこんなことがあったん ですか?」
      少しずつ焼け崩れていく花嫁を呆然と見つめながら、ふたりにそっと尋ねてみた。
      「いや、こんなに恐ろしい有り様は、これまでいっぺんたりともありませんでした」 ―――てっきり守り神だと思っていたのになあ......。
      炎を見つめながら小さくつぶやいた克己氏の瞳には、薄く涙が滲んでいた。
      「郷内さんが先日おっしゃったこと、やっぱり正しかったんですね。あの時すぐにこいつを処分してれば、嫁もあんな怖い目に遭わずに済んだのに。大変申しわけありませんでした」
      私のほうへ向き直り、忠文氏が深々と頭をさげる。
      だが忠文氏は先日、私が発した言葉の意味をとり違えていた。
      私はあの日、海上家に代々続く花嫁たちの連続死は、人形をあがめて拝むことから生じる一種の強迫観念、ないしは自己暗示だと断定したのだ。
      人形そのものが魔性を宿しているなどとは、ただのひと言も言っていない。
      私が先般打ち立てた仮説は、もうすでに一蹴されたようなものだった。確かに強迫観念や自己暗示も、歴代の花嫁たちを苦しめてきたひとつの要因ではあ るのかもしれない。
      だが、実際はどうだ。おそらくはそれ以上の目に見えない何かが、あったのである。
      炎の中で黒々と焼け焦げる花嫁の姿を見ながら、否でもそう確信せざるを得なかった。
      頃合いを見計らい、燃え盛る炎を前に供養の経をあげ始める。
      読経の間、眼前の業火にふと目を投じると、黒焦げになった花嫁が身をよじるようにしてかすかに動いているのが、はっきりと見てとれた。
      脇目で忠文氏と克己氏の様子をうかがう。ふたりとも真っ青な顔になって明々と燃え盛る火炎の中を、慄然と見つめていた。
      花嫁は綿帽子も白無垢もすでに大半が焼け崩れ、炎の中で苦しげに蠢くのは、裸に剥かれ、真っ黒に染まった女の残骸である。
      かつて彼女が在りし頃。純白の白無垢に袖を通した時。祝言で三々九度の盃を交わした時。嫁いだその日、海上家で初めての夜を迎えた時――。
      彼女は果たして、こんな未来が来ることを想像することができただろうか。
      どろどろと渦を巻く炎に次々と食まれ、刻一刻と原形を失っていく花嫁の姿を見ていると、無性に堪らない気持ちになってしまい、自然と涙がこぼれてしまう。
      花嫁が何者であったにせよ、もはやそんなことはどうでもよかった。余計なことは考えず、とにかく懇ろに弔おうと思い做す。
      花嫁の身体が熄滅して灰と化すまで、私は一心不乱に供養の経を唱え続けた。

      花嫁の総身が悉皆焼き尽くされ、炎の勢いも徐々に弱まりを見せ始めた頃。空にはすでにうっすらと光が射し、そろそろ朝陽の昇る時間になっていた。「あとの始末は任せろ」と克己氏に言われたので、私は忠文氏とふたりで家の中へと戻った。 茶の間へ向かうと、寝間着から着替えた雅文さんと霞さんが肩 を並べて待っていた。
      「お礼が遅くなって申しわけありません。 このたびは本当にありがとうございました」
      「助かりました。本当にありがとうございます」
      夫婦揃って深々と頭をさげられ、私はなんともバツの悪い気分になる。最初は雅文さんの依頼を突っぱねたうえに、着信拒否までして尻尾を巻いたのだ。 心底居心地の悪くなるような顔色で、ぶっきらぼうに礼を述べられるくらい ならまだしも、こうして丁重に感謝の言葉を賜ると、むしろ肩身が狭くなる思いがした。
      「おなかすいてませんか? 朝ごはん用意してますから、食べていってください」
      霞さんは笑顔で私にそう言うと、いそいそと台所へ向かっていった。
      散々泣き腫らした顔にはまだまだ痛々しい爪痕が残って見えたが、それでも綺麗に化粧を整えた顔の表情は、すこぶる明るいものだった。
      それから私は海上家の面々と卓を囲んで、霞さんのこしらえた朝食をごちそうになった。食事の途中で克己氏もようやく戻ってきて、しばらくみんなで朝 の食事を満喫した。
      克己氏にその後の始末について尋ねてみると、花嫁の遺灰は焼け残った焚き 木の残骸ごと、裏庭に穴を掘って埋めたという。
      「あんたが拝んでる間、なんだか無性に泣けてきましてねえ。懇ろに弔ってきましたよ」
      克己氏は目頭を熱くさせながら語った。

      朝食後、礼を述べつつ海上家を辞す。
      玄関口を出ると、海上家の面々も総出で見送りに出てきてくれた。
      「家の中、 これですっかりよくなったみたいです」
      車に乗りこもうとしたところで、涼やかな笑みを浮かべながら霞さんが私に言った。
      「そうですね。怖い思いもしたでしょうけど、これでもう祟りに怯えなくて済 むはずです」
      霞さんの言葉の意味が、花嫁の熄滅を指しているものだと思った私は、そのように答えた。だが彼女の言葉の真意は、そこではなかった。
      「家の中、気づきませんでした? わたし、嫁いできて初めてです。こんなに明るいの」 そこでようやく私も「ああ!」と声をあげた。
      ほとんど日の出とともに家の中へ戻ったため、気づかなかったのである。花嫁を燃やして再び家へと戻った時には、家中の至るところにあれほど濃密に 漂っていた冥々とした陰気が、すっかり消えてなくなっていた。
      「朝ごはん、あんなに気持ちよく食べられたのも初めてでした。おいしかったです」
      思い返せば朝食を食べた茶の間にも、清々しい朝陽が燦々と射しこんできていたのである。なんとも鈍感なことだと、暗に赤面させられる羽目になる。
      「本当におっしゃってたとおりでしたね。ありがとうございます」
      ――問題がきちんと解決すれば、霞さんの家も明るくなるんじゃないでしょうか。
      先日、霞さんが仕事場を来訪した際、確かにそんな気休めを言った記憶がある。奇しくもそれが現実となり、証明されてしまったというわけである。
      私たちの話を傍らで聞いていた雅文さんが「なになに、なんの話?」と首を傾げた。
      「ほらね。やっぱり分からないんだもん」
      それを受けた霞さんは、当惑顔の雅文さんを指差しながらくすくすと笑った。
      私も笑いながら車に乗りこむと、すっかり明るくなった海岸線へ向けて車を走らせた。 恐ろしい一夜を過ごした割に気分は不思議と晴れ晴れとしていて、とても清々しかった。
      これでようやく本当に肩の荷がおりた。
      朝陽に包まれた海岸線を悠然と走るさなか、そんな実感がまざまざと湧いた。

    再訪


      じゃあ、わたしこれで――。
      それから四ヶ月が過ぎた、八月の蒸し暑い夏の盛り。
      霞さんが再び私の仕事場を訪ねてきた。
      「すみません。いただいた御守り、ダメにしちゃいました」
      ぺろりと小さく舌を出しながら、霞さんは少々いたずらっぽい微笑を浮かべ、はにかんだ。その面差しは以前とは比べ物にならないほど、明るく生き生 きとしたものになっていた。
      なんでも四月の来訪時に私が譲った御守りを、ズボンのポケットに入れていたのを忘れて一緒に洗濯してしまったのだという。そこで、また新しい御守り を作ってほしいというのが、この日、霞さんが私の仕事場を訪れた用件だった。
      「派手に洗ってしまいましたね」
      洗濯機の激流に揉まれ、ぼろぼろに擦りきれた御守りの残骸を見ながら、私も笑った。
      「それでお詫びの印というわけじゃないんですが、よかったら召しあがってください」
      そう言って、霞さんは私の目の前に大きな紙袋を差しだした。
      「なんですか?」と尋ねると、霞さんは「バターブレッドです」と答えた。
      袋を開けて中を覗くと、焼きたてのバターブレッドが二斤、香ばしい匂いを立ち昇らせて、私を見あげていた。
      それから座卓の上で新しい御守りを作りつつ、霞さんからあれこれと近況を伺った。
      件の花嫁を処分して以降、結婚生活はすこぶる順調だという。雅文さんを始め、家族一同みんな元気に過ごしており、家の中には活気も湧いて日々の暮らしが楽しいものになった。
      加えて、家じゅうに漂っていた異様な陰気もあれ以来、一度も感知することがないという。
      ただひとつ。例の花嫁の夢だけは、あの後も見たことがあるのだと、霞さんは語った。
      たかが夢、されど夢である。なんだかひどく心配になり、「大丈夫ですか?」と尋ねる。
      「大丈夫です。 頭が思いだしたみたいに、夢を見せてるだけみたいですから」
      私の心配をよそに、霞さんはふくふくとした笑みを絶やさず答えを返した。
      霞さん曰く、夢を見たのはこの四ヶ月でわずか二回だけ。また、夢自体にも以前のような異様な生々しさは感じられなくなった。 目覚めた時にいかにも夢らしい朧な感触がわずかに残っているくらいで、特に恐怖を感じることもないという。
      「後遺症みたいなものですかね」と霞さんは、不吉な夢を軽々と笑い飛ばしてみせた。
      後遺症といえば、私の耳もそうだった。あの後、数週間ほどで聴力自体は回復したのだが、それでも耳の中に異物が詰まっているような違和感が、未だに残り続けていた。
      耳鼻科にも行ってみたが、原因は分からないと言われた。 分からないと診断 された以上、どうすることもできないので、私もさして気に留めることもなくなっていた。

      帰りしな、仕事場を立ち去る霞さんを庭先に停められた車まで見送った。
      「新しい御守り、ありがとうございます。 今度こそ大事にしますから」
      小さな鼻にきゅっと皺を寄せながら、霞さんが私に約束する。
      「そうですか。ああ、でも本当にまた駄目にしてしまったら、遠慮なく言ってくださいよ? いつでも新しいのを作り直しますから」
      「大丈夫ですよ! ......あれ、もしかして信用してないんですか?」
      おどけた笑みを浮かべながら、霞さんが私の顔を覗きこむ。
      それは屈託のないすこぶる明るい笑顔だった。この人はこんな顔もできるのだなと思った。こんな顔をこれからもずっとしていてほしいな、とも思った。
      「じゃあ、わたしこれで」
      「ええ。お気をつけて」
      真夏の力強い陽光を浴びて、濃紺の瞳が一際鮮やかな藍色に輝いた。
      車に乗りこんだ霞さんは運転席から小さく手を振り、微笑みながら門口を出ていった。
      私が生きている霞さんを見たのは、それが最後になった。

    輪廻


      全てはあの大震災のさなかに――。
      私が霞さんの訃報を知ったのは、東日本大震災発生から四日後の二〇一一年 三月一五日。戸外に粉雪がちらつく昼過ぎのことだった。
      その日、私は真弓とふたりで地元のスーパーの行列に並んでいた。
      震災当日。たまさか私の実家に泊まりに来ていた真弓は、私の外出中に家族と一緒に被災。自宅へ帰還するまでのルートが壊滅的な被害を受けたことから、世相が落ち着くまでの期間、そのまま実家に滞在することになっていた。

      足元からも凍りつくような冷気がしんしんと這いあがってくる寒空の下、この日の昼から臨時営業するというスーパーの情報を信じ、ふたりで寒さに耐え 忍んでいた時だった。
      外套のポケットに入れていた私の携帯電話が鳴った。
      誰だと思いディスプレイを検めると、雅文さんの携帯番号だった。
      「ごめん」と真弓に断り、行列を抜けだして人波から遠ざかる。
      この時期、以前の相談客から来る電話は、自身や家族の安否を報せる用件が大半だった。無事だという報告であれば、なんら差し支えのない話である。だが、相談客の中には津波に流されて行方不明になった家族や、身内の安全を拝んでほしいという依頼も稀にあった。
      そうなると大変デリケートな用件になるため、他人に聞かれたくなかったのである。
      人気のないスーパーの側面まで小走りで向かったあと、ようやく受話ボタンを押す。
      挨拶もそこそこに雅文さんから出たひと言に、身体の力がすっと抜けていった。
      「霞が、死にました」
      どうしてですか、と私が尋ねるよりも早く、雅文さんはまるで独白のように 説明を始めた。

      十一日。震災の当日だったという。
      その日、霞さんは近くの市街へ買い物に出かけていた。市街の大型スーパー で買い物中に、彼女は被災したのだという。
      揺れが収まったあと、霞さんはただちに雅文さんへ安否確認の連絡をいれた。が、回線はすでにパンクし、全くつながらない状態にあったという。 同じく、勤め先にいた雅文さんも霞さんの電話へ連絡をいれたが、その後もしばらく通話のつながらない状態が続いた。
      それから数十分後、沿岸区域に津波警報が高々と発令される。
      霞さんからの着信があったのは、それからさらに数分後のことだった。
      「電話口で霞は、家に戻って祖父ちゃんを救けにいくと言ったんです」
      この時、海上家には克己氏が独りで残されていた。
      「僕はやめろと言ったんです。 でも霞は聞きませんでした。祖父ちゃんを救けなきゃって」
      雅文さんが必死で説得を続ける中、回線の影響か、それとも霞さんが故意に切ったものか、 通話が突然、ぷつりと途切れてしまったのだという。
      「霞と話したのは、その時が最後です」
      その後は何度かけ直しても、霞さんが応答することはもう二度となかったという。

      それから三日後、瓦礫の山と化した海上家の跡地から霞さんと克己氏の遺体が発見された。
      震災当日、勤めに出ていた忠文氏とは、未だに連絡がつかない状態にあるという。
      雅文さんはたった独りで海上家の探策に戻った折、大津波によって滅茶苦茶に蹂躙されたかつての屋敷の瓦礫の中から、霞さんと克己氏の遺体を発見したのだと、私に語った。
      言葉が出なかった。
      雅文さんの口から語られていることの何もかもが夢のように感じられ、とてもではないが、受け止めることができなかった。
      しばらく電話を耳に押し当てたまま、呆然とする。放心しながら話を聞いていた私を再び現実へ引き戻したのは、彼が唐突に発したひと言だった。
      「霞、花嫁さんの恰好をして死んでたんですよ」
      電話口の向こうで、くすりと小さな音がした。 洟でもすする音かと思った。
      「廊下にかけていた白いレースのカーテンがね。身体にくるくるって、何重にも絡まってね。ちょうど花嫁衣裳みたいだったんですよ」
      再びくすくすと、音。洟をすすって泣いているのではなかった。
      雅文さんは嗤っていた。
      「それで郷内さん。今日お電話したのはですね、まあ現状報告というのもあるんですけれど、ちょっと抗議みたいなことも申しあげておきたくて」
      笑いながらも、 語気が少しだけ鋭くなる。
      「・・・・・・抗議とは?」
      「うちの花嫁さんですよ。覚えてるでしょ? 守り神の花嫁さん。あれ、郷内さんの指示で燃やしましたよね? これが祟りの原因だなんてそそのかすもんだから、承諾しましたがね。でも死んじゃったじゃないですか、霞。ねえ、 霞ぃ! 死にましたよ霞いいッ!」
      笑い声が怒号に、怒号が涙声に次々と切り替わって、電話越しに高々と弾ける。
      返す言葉は何もなかった。
      死因がなんであれ、結局、霞さんは嫁いで三年以内に亡くなってしまったのだから。
      申しわけありませんでした、と謝罪すると、
      「謝って済む問題じゃあないでしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
      鼓膜が破れるような声量で、雅文さんが激昂した。
      「でも、いいんです。 いや、全然よくはないんだけど、まあいいんです。それよりもね。僕はこれから先のことを考えなくちゃいけないんですよ」
      うん、うん、うん、と雅文さんは、自分に言い聞かせるように何度も短く声をあげた。
      ほとんど何も言うことができず 「ご自愛ください」と、伝えようとした時だった。
      「人形、また作ろうと思うんです」
      そのひと言が何を意味するものなのか瞬時に分かり、全身が総毛だった。
      「守り神は、やっぱり必要だと思うんですよ」
      やめろ。
      「あれがなくなったから、霞だけじゃなく、親父も祖父ちゃんも······畜生。でも大丈夫です。また作ればいい。作ればいいんですから」
      やめろ。
      「親父は髪と爪と歯を使っているって言ってましたけど、あれは嘘。本当はミイラなんです。 というか剥製か。とにかく古い先祖の花嫁さんの遺体を加工して作った物ですよ。 でもなあ、僕にそんな技術はないし、業者に頼んだらさすがにまずいですよね。 死体損壊でしたっけ? そういう罪になりますよねえ。 ......どうしよう。やっぱり髪と爪と歯だけを使おうかな」
      やめろ。
      「いや、駄目だ。ねえ、覚えてます? 霞の目。霞ねえ、藍色の綺麗な目をしてるんですよ。あの目がね、僕大好きだったんです。宝石みたいでね。あの目はずっと残しておきたいなあ。ううん、どうしよう。 どうしようかなあ・・・・・・」
      やめろ。
      「...... あっ、いいこと思いつきました! 首だけ。首だけ使うんです! 身体は作り物でも別にいいんですよ! どうせ白無垢を着せるだけなんですから。そんなものより大事なのはやっぱり首です。顔です。僕にとっては霞の目がいちばん大事なんですよ」
      やめろ。
      「ああいいなあ、すごくいいなあ。 それならずっと霞と一緒にいられますし、最高でしょ? 霞が輪廻するんです。輪廻して海上家の新しい守り神になるんだよッ!」
      「やめろッ!」
      ようやく言葉が出た瞬間、通話がぷつりと断ち切れた。
      慌てて電話を折り返す。 しかし、向こうの電話はすでに電源が切られてあった。
      霞さんの顔が、記憶が、頭の中にどっと押し寄せ、私の心をぺしゃんこに押し潰す。
      海上家の門口から、私の車が見えなくなるまで見送ってくれた霞さん。
      私の仕事場で恥ずかしそうに頬を赤らめながら、お菓子を食んでいた霞さん。
      仕事場の水槽を覗きこみ、 「金魚、綺麗ですね」と微笑んでいた霞さん。
      「おなかすいてませんか?」 と、私に朝食を勧めてくれた霞さん。
      「いただいた御守り、ダメにしちゃいました」と、いたずらっぽく舌を出していた霞さん。
      私なんかのために、わざわざ手製のバターブレッドを持参してくれた霞さん。
      とてもおいしいバターブレッドだった。あの日、さっそく口にいれて舌鼓を打ったのだ。
      それからしばらく寒空の下にへたりこみ、私は頭を抱えて泣いた。
      悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった。
      一体どうしてこんなことになったのか。今さら取り返しもつかないというのに、考える。
      あの干乾びた花嫁は、荼毘に付したうえで懇ろに弔った。
      その後、海上家は明るさと活気をとり戻し、穏やかな生活を送れるようになった。
      それは他ならぬ霞さん本人が実感していたことだし、喜んで近況を語ってもくれたのだ。
      極めて良好な結果を鑑みれば、私の対応が間違っていたとはどうしても思えなかった。
      何もかもうまくいっていたはずなのに、どうしてなのか――と思った瞬間。
      とんでもないことを軽視していたことにはたと思い至り、とたんに身体の力が抜けた。
      夢である。
      霞さんは、花嫁を処分したのちにもまだあの夢を見続けていた。以前と違って回数も減り、目覚めた時の記憶も朧なものだと本人は語っていたが、夢はまだ見続けていたのである。
      おそらく夢の内容も、以前と同じものだったのだと思う。
      すなわち、はるか海の向こうからやってくる花嫁と、とてつもなく巨大な何か――。
      確たる証拠は何もない。縁起でもない邪推である。こんな時勢に不謹慎な考えだとも思う。ただ、理性は考えまいと努めても、心は激しくそれに飛びついてしまった。 夢の中身はまるで、津波の暗示ではないか――。
      慄く心に呼応するかのように、さらにとてつもなく厭な記憶が、頭中に鎌首をもたげる。
      霞さんが私の仕事場を初めて訪ねてきた昨年の春。
      あの当時、花嫁の祟りなど所詮思いこみだという観念のほうが、私の中で強く勝っていた。また、霞さんにもぜひともそのように思ってもらい、心の負担を軽くさせてもあげたかった。
      だから私はあえて無視した。意図して無視してしまったのである。霞さんと海上家の間に、本当はとんでもない偶然が発生していたという事実を。
      海上家を初めて訪問した際、忠文氏から伺った花嫁の祟りにまつわる伝承。古い時代にさらわれてきた、花嫁の祟りなのです――。
      花嫁がさらわれてきた島というのは、実は霞さんの生まれ育った、あの島なのである。
      霞さんが小学時代、目を蒼く染められてしまったという、あの花嫁の洞窟がある島。
      当時、洞窟に同行した千草の供述を思い返してみると、厭らしい想像力が勝手に働いた。

      千草の話によればあの日、霞さんは件の洞窟を出た直後、一時的な意識混濁 に陥っている。もちろん単なる失神であったという可能性は否定できないし、私自身も本心では否定したい気持ちのほうが強かった。 ただ、それでも私はこの時、こんなことも考えてしまった。
      霞さんはあの日からずっと、魅入られていたのではないかと――。
      それもあの当時、あの時点からもうすでに、他ならぬ〝海上家の災いの元凶 たる花嫁〟に。
      さらわれてきた花嫁はその後、海上の屋敷を逃げだし、海へと飛びこんだままそれっきり。遺体はあがらず、生き延びたのか死んだのか、それすらも分からないと伝わっていた。
      おそらく花嫁は、故郷の島まで戻ったのだ。ただし、潮流にひどく揉まれた島へと流れ着いた花嫁の亡骸は、あの島の、あの岬の下の、あの洞窟へと流れ着いた。
      だから洞窟にはお宮があり、千草はあの日、洞窟内で花嫁の亡魂を幻視することになった。
      このように考えると何もかも辻褄が合う。 辻褄が合うからこそ、恐ろしくて肌身が震えた。
      それに私は、花嫁の剥製を荼毘に付しただけで、災いの元凶たるこの初代花嫁に関してはなんらの対応もしていない。 仮にこれが祟りの延長なのだとすれば、やはりそれは私自身の見識不足と力不足が招いた結果なのである。 完全に 片手落ちだった。
      人形を燃やせば全て解決すると、私は盲信していたのである。霞さんはもう帰ってこない。今さら取り返しのつかない現実に私は絶望し、ひたすら身悶えするしかなかった。

      その後、雅文さんの携帯に再び連絡を入れた。だが、電話が繋がることは二度となかった。そのうち着信拒否にもされてしまったので、私は雅文さんとの対話を断念した。
      代わりにさんざん迷った末、警察に一応の連絡をいれた。
      海上雅文から三月十五日に受けた通話内容の大筋。 それに付随して昨年の四月、海上家の自宅裏庭において、花嫁姿の剥製と思しきものを私自身が焼却したという事実。
      祟りや因果に関する実在論などは抜きにして、これまでの経過のみをつまびらかに伝えた。
      ただしその後、警察から折り返し連絡がくることはついぞなかった。
      霞さんの遺体がどうなったのかは、今もって分からない。
      同じく、花嫁に何かをされて不調を来たした私の片耳も、本稿を執筆している二〇一四年七月の現時点で、未だ快癒には至っていない。

    邂逅


      時折、気持ちがどこまでも底なしに沈む。気力が衰え、意欲が萎み、生きる 希望も自信も何もかもが潰えて、ひたすら底なしに気持ちが沈む――。
      東日本大震災から半年が経った、二〇一一年九月。
      私は真弓と結婚し、実家からほど近い山の麓に立つ、古びた一軒家に居を構えた。
      拝み屋を始めて九年目にしてようやくの、それは遅すぎると言っていいほど の独立だった。
      だが、その生活は楽しいことよりもむしろ、辛いことや苦しいことのほうがより多かった。
      拝み屋など元々儲かる稼業ではないから、生活はどちらかというと困窮していた。
      真弓はそんな青色吐息の起き伏しに不平のひとつもこぼさず、献身的に寄り添ってくれた。 真弓の一途な気持ちは、とてもありがたいものだと理解はしていた。けれども、私としてはそんな彼女の健気な姿を見ることすら時に忍びなく、耐え難い重圧になることすらあった。
      妻が欲しいと言うものさえ満足に買えず、願いのひとつもろくに叶えてあげられない――。そんな現状を憂うたび、伴侶に対する不甲斐なさを感じるほど、自分自身の可能性の限界を日々切々と痛感させられていたのである。
      結婚からそろそろ一年を迎えようとしていた、二〇一二年七月下旬。
      羽化したばかりの蝉たちの大合唱がやたらと耳に障る、蒸し暑い午前中のここの日も私の心は沈んでいた。仕事の予約がないことも手伝い、朝から仕事部屋に籠って、尽きることなく煩悶していた。
      「今日は休みなの?」
      朝食の席で真弓からにこにこ問いかけられるも、返事はひと言 「ああ・・・・・・」
      真弓の笑顔の意味がなんなのか。知っているのにこのザマである。
      真弓はきっと、どこかへ遊びに出掛けたいのだ。
      数日前、夕餉の時に「海を見に行きたいな」 「山もいいな」などと、私の顔 色を見ながら遠慮がちにつぶやいていたのを覚えている。
      思えば収入がどうのという問題以前に、そもそも私は夫としても落第なのだ。
      平素は日がな一日、大して金にもならない仕事ばかりに没頭し、たまの休みはこのように薄らぼんやりと虚空を見あげる日々なのである。伴侶の想いを測ろうとする余裕すらもない。
      まるで生きる屍のようだった。寝起き姿のまま、仕事部屋の畳の上にだらしなく横たわる自分自身の姿に、そのような印象をありありと思い抱く。
      どこまでも気持ちが沈み、落ちくたびれていくと、このまま死んでもいいとさえ思った。何もかも捨てて楽になれるのなら、それが最善だろうとも思った。
      倦みつかれた頭でろくでもないことを考えていたところへ、障子戸がすっと開く音がした。 真弓かと思って顔をあげると、開け放たれた仕事部屋の戸口に若い女性が立っていた。
      「おはようございます。よろしいですか?」
      温雅な笑みを浮かべながら、軽やかな声で彼女は私に尋ねた。
      しまったと思い、とたんに顔が引き攣る。どうやらスケジュールを読み違えたらしい。
      慌てて起きあがり、 どうぞどうぞと頭をさげる。
      「失礼します」と女性も軽く会釈して、座卓の向かい側に腰をおろした。
      髪の長い、目鼻立ちのすっきりとした、綺麗な人だった。
      服装は半袖の白いブラウスに、鮮やかなブルーのロングスカート。真夏の白い雲と青い空。あるいは白い砂浜と青い海。 そんなことを連想させる、見目爽 やかな装いだった。
      一方、私のほうはといえば、 起き抜けのままのTシャツに短パン姿。 とても 人からお金をいただいて相談事を賜るような恰好ではない。
      おたおたしながら腰をあげ、「すみません。着替えて参ります」 と先方に告げる。
      しかし彼女は口元に手を当てながらくすくすと笑い、「いえいえ、どうぞお構いなく」と柔らかな声風で私を制した。
      仕方なく座卓の定位置に座り直すも、なんともいえない居心地の悪さを感じてしまう。

      「それで、本日はどういったご用件でしょうか?」
      半分寝癖のついたぼさぼさ頭でしかつめらしくそんなことを言ったところで、決まらない。威厳もへったくれもあったものではなかった。 自分でもなんだかおかしくなってしまう。
      「実は近いうちにわたし、外国に行くことになったんです」
      色白の細面を小さくうなずかせながら、女性は言った。
      「それで、 安全祈願というか、無事に到着できるように拝んでいただきたいんですね」
      外国か。いいなと思いながら、ふたつ返事で彼女の依頼を引き受けた。
      寝起き姿のまま祭壇前へと座り、乞われるままに安全祈願の祝詞を粛々とあげる。突然の来客にもかかわらず、加えてひどい服装であるにもかかわらず、ひとたび祭壇前に座ると、怖めず臆せず無心で拝める自分自身に、初めて年季 のようなものをうっすらと感じる。
      「外国。いいですね。どちらに行かれるんです?」
      拝み終えてから、彼女に尋ねる。
      「それは秘密です。 でも、いとこのところ。そろそろおいでって言われちゃって」
      私の質問に、女性はほんの少し悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
      「あ、そうだ。 もしよろしければ御守りも作っていただけませんか? 安全祈願のやつ」
      思いだしたように女性が言ったので、これもふたつ返事で引き受ける。
      それからしばらく、御守りを作りながら彼女と取り留めのない会話に興じた。
      彼女はとても快活で、それでいて聡明な人だった。ひどい服装だったことも多分に手伝い、話をしているうちに、なんだか私のほうが彼女に相談をしてい るような錯覚を覚えた。
      事実、 彼女と言葉を重ね、交わし合っていくうち、私の気持ちは不思議と上向いていった。気づけば朝からの気塞ぎもいつのまにかすっかり治まっていたことに気づいて驚く。
      できあがった見栄えのよくない御守りを手渡すと、彼女は両手で御守りをそっと包みこみ、「ありがとうございます。 大事にしますね」と微笑んだ。
      それから仕事部屋を辞した彼女を玄関口まで見送った。
      「今日はお世話になりました。 楽しかったです。 ありがとうございます」
      御守りを両手に添えたまま、彼女は私に頭をさげる。
      「いえ、こちらこそ楽しかったです。またご縁があったら、いつでもいらしてください」
      「まあ――気が向いたらまた来てみますね。 でも、お元気そうでよかったです」
      ちょっとだけ皮肉の混じった彼女の言葉に、ふっと違和感を覚える。
      「もしかして、以前にもいらっしゃいましたか?」
      肩越しにこちらをゆったりと振り向きながら、玄関戸の前で彼女は頬を緩めてみせた。
      「それは失礼しました。どうにも昔から物覚えが悪い性分でして......」
      ぺこぺこと頭をさげる私を見つめ、彼女は口元を押さえてくすくすと快活に笑う。
      「じゃあ、今度は忘れないでくださいね?」
      人差し指をつんと突き立て、小首を傾げ、おどけた声で彼女が言った。
      からからと軽やかな音を響かせ、玄関戸がゆっくりと開かれていく。
      真夏の力強い陽光が玄関口に燦々と射しこみ、

      彼女の瞳が一瞬、鮮やかな藍色に輝いた。

      再び玄関戸が閉められた直後、ようやく私ははっとなる。
      そのまま弾かれたように玄関戸を開き直し、すかさず外へ飛びだす。
      玄関前の庭先には、すでに彼女の姿はおろか、車さえも停まっていなかった。
      辺り一面には夏色に映える鮮やかな緑の風景と、蝉たちの大合唱があるばかりである。
      「忘れるわけないじゃないですか......」
      頭上に広がる紺碧の空を見あげながら、私はぽつりと独りごちた。
      庭先で洗濯物を干していた真弓が「どうしたの?」 と、不思議そうな顔で私 に声をかける。
      「なんでもない」と答えると、真弓はそれでも「ふぅん?」と首を捻った。
      「ほんとになんでもない。―――それよりちょっと、海でも見にいかないか?」
      私が言うと、真弓はとたんにぱっと顔を輝かせ、「うん!」とうなずいた。

      真弓を助手席に乗せ、海岸線に車を走らせる。
      窓を開けると穏やかな海風が潮の香りを車内に運び、鼻腔を軽くくすぐった。
      遠くでどうどうと鳴り響く潮騒は耳に優しく、心地よかった。
      真弓は青空でみゃあみゃあと鳴き交わす、ウミネコたちの姿にすっかり夢中になっている。
      この花嫁こそは守らねば。はしゃぐ真弓を横目で眺めながら、私はそっと心に誓う。
      やっていこうと思った。それもなるべく、しっかりやっていこうと。
      なぜならあの時、生かされたのだから。
      しばらくぶりに華原さんのことを思いだしていた。
      いつのまにか、自分自身が華原さんと同じ年頃になっていたことにもようやく思い至る。
      思えば妙なものである。
      私もあの頃の華原さんと同じく、今は妻とふたりで山裾の古びた一軒家に暮らしている。貧乏暮らしも等しく同じである。やたらと妻が健気で甲斐甲斐しいのもまた、同じである。
      ゆくりなく数奇なものである。
      望んだわけでもないというのに、気づけば綺麗にお膳立てが整えられてしまっていた。
      これからも続けろということか、と思う。これからも続けますよ、とも思う。
      笑おうと思った。それもなるべく、まっすぐな気持ちで笑っていこうと。
      かつて華原さんが、笑っていたように。
      千草と霞さんのことも思いだしていた。
      小さい頃、千草も霞さんも、お化けの話が大好きな娘だったのだという。
      こんなことを想像してみる。 今頃ふたりは〝外国〟で、久々の再会を果たしている。
      夜にはふたりで肩を寄せ合い、怖い話に興じて、黄色い声を弾ませ、楽しんでいるのだ。
      それは、母様の思惑や花嫁の悪意とはまるで無縁な、素朴で無邪気な怖い話なのである。
      そういえば引越したばかりの去年には、先住していた古狸に化かされたこと もあったな。
      華原家の宇治衛門を思いだしながら、やれやれと頭を振る。
      また繋がってしまった。けれどもこれはきっと、素晴らしい繋がりである。
      縁と言い換えてもいい。
      帰宅したら怪談を書こうと思った。 引越し早々、私と真弓が狸に化かされた胸躍る話を。
      書いたら祭壇に原稿を供えて千草と霞さん、それから華原さんにも届けてあげよう。
      喜ぶといいな。
      久々に心からの笑みを浮かべながら、私は真弓の右手をそっと握った。

      本書は、二〇一四年九月にMF文庫ダ・ヴィンチより刊行された『拝み屋郷内 花嫁の家』を加筆・修正・再編集のうえ、 改題したものです。

      関連項目


      真夏の夜の淫夢
      郷内心瞳

    掲示板

    1: 名無し先輩 2025/12/20 17:05

    怪談というより、なろう小説みたいでした

    2: 花嫁姉貴 2026/01/16 07:38

    たくま、くびりころす。

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