里見義堯 (2025/03/02 16:36の版)

里見義堯


里見 義堯(さとみ よしたか、永正4(1507)年~天正2年6月1日(1574年6月19日)は安房里見氏の第5代当主にして日本の戦国大名である。

本拠地は安房国で、後に上総国全域と下総国及び武蔵国の一部を支配する大名へと成長した。

勢力の拡大


天文2年(1533年)、父の里見実堯とその家臣正木通綱が従兄で里見氏第4代当主の里見義豊に内通の疑いで抹殺される。この報せを聞いた義堯は謀反を決意。後に天文の内訌と呼ばれる内紛を引き起こす。敵であった北条氏綱の支援を借りた義堯は義豊を打ち破り大名となった。

その後は北条氏綱と半ば同盟のような関係であったが、真里谷恕鑑の死によって真里谷(上総武田)氏に家督争いが起こるとその方向性の違いで北条氏と絶縁状態になる。

真里谷信応を支持し、北条方の真里谷信隆を上総から追放した義堯は反北条で小弓城(現在の千葉市生実)に本拠を持つ足利義明が関東公方となるべく動く。

対して古河城を本拠地とする足利晴氏を支持する北条氏綱はそれを許さず、天文7年(1538年)両者は国府台の地で一戦を交えることになる。

義堯他義明方の武将は渡河中の敵を殲滅すべしと主張したが義明は「足利将軍の一族であるこの私が自ら先陣を切れば本気で弓を引ける者など居よう筈もない」などと意味不明な主張を行い義堯を呆れさせた。

結局この戦いで里見軍はまともに戦わず義明戦死の報を聞いた直後に撤退した。この戦いとほぼ同時に真里谷信隆が復活したことで義堯は空白地帯と化した上総・下総の諸城を戦わずして得ることになる。

国府台合戦で全盛期を築いた里見家だったが氏綱死後に家督を継承し、扇谷・山内両上杉家を壊滅に追い込んだ相模の獅子・北条氏康の策略が彼らを襲う。

北条氏康との争い


天文21年(1552年)に北条氏康の策動によって、里見氏傘下の国人領主の離反が発生し、天文23年(1554年)には氏康と今川義元、甲斐の虎・武田晴信(後の信玄)の間で甲相駿三国同盟を締結された。

一連の準備を完了した氏康は天文22年4月から氏綱の娘婿の地黄八幡・北条綱成や氏康の弟の北条氏尭に波状攻撃を命じ金谷城や佐貫城などの西上総沿岸部の諸城を奪い取る。

対する義堯は国人一揆の鎮圧と山内上杉憲政を匿う越後の龍・長尾景虎(後の上杉謙信)や坂東太郎・佐竹義重、犬使い・太田資正(後の三楽斎)などと連携して北条家に対抗した。

永禄3年5月19日(1560年6月12日)に桶狭間の戦いが勃発し今川義元が討ち取られると、三国同盟に揺らぎが生じ始める。これを好機と見た長尾景虎は同年北条領に侵攻。里見家もこれに続いた。

旧領の奪還を完了させた永禄5年(1562年)、剃髪して入道し、名を正五と改め家督を子の義弘に譲って隠居するも実権は正五が握り続けた。

永禄7年(1564年)、北条方の太田康資(注:犬使いと同族)の内通に応じて正五は義弘と共に敵対する千葉氏の重臣高城胤吉の勢力圏にあった下総の国府台に侵攻し、北条軍を迎え撃ったが両軍死傷者多数で決着は付かなかった。

永禄10年(1567年)8月、義弘の率いる里見軍は三船台に陣取る北条軍を攻囲した。これを知った北条氏康は嫡男氏政と太田氏資(注:犬使いの息子)らを援軍として向かわせ、別働隊として氏康の3男氏照と千葉家の重臣原胤貞を正五が詰める久留里城の攻撃へと向かわせた。これに対して正五は守りを堅固にし、義弘は正木大膳亮憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の本軍を攻撃して討ち破った。この時、北条軍の殿を務めた太田氏資(注:犬使いの息子)が戦死する(三船山合戦)。また、水軍の指揮を取り浦賀水道の確保に当たっていた北条綱成は三浦口より安房へ侵入しようと試みたが、里見水軍と菊名浦の沖合いで交戦して損害を出している。これらの情勢により水陸から挟撃される危険を察知した北条軍は、全軍が上総から撤退することとなった。

その後も飛ぶ鳥を落とす勢いで北条領を占領し下総や武蔵の一部を掌握するも天正4年死去。享年68。

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